「真実を現す剣」

2023年6月25日(聖霊降臨後第4主日)
マタイによる福音書10章24節-39節

イエスというお方は、この世の価値観とは違う次元の価値観に生きているお方です。「人間を恐れるな」とおっしゃっていますが、わたしたちは人間を恐れています。真実を皆の前で言うことはよろしくないと考えます。オブラートにくるんでできるだけ分かり難いようにすることが最善だと言う人もいます。地獄があるかどうか分からないのだから、この地上で上手くやっていくことを求めます。イエスを救い主と告白することが人に嫌われることや迫害されることであれば、告白したくないものです。イエスは優しいお方だから、平和のために来られたと思います。争いを生み出すために来たはずはないと思います。家族は大切なものだから、家族が壊れたら社会は成り立たないと政府が言うことはもっともだと思います。このようなわたしたちは、今日イエスがおっしゃる言葉をどのように聞くのでしょうか。

この世のことはこの世のこととして上手くやっていける方が良い。だから、この世と信仰とは別だと考えよう。究極的なことは、最後の審判が来たときに考えれば良い。この世に生きているのだから、この世のやり方に倣っておく方が賢いことだ。人間関係を上手くやっていくことが最優先であって、神のこと、信仰のことは年取ってから考えれば良いのではないか。平和というのは、人と上手くやっていくことで得られるのだから、真実を語ったところで、何も変わらないだろうし、当たり障りのないことを言っておけば、上手く行くものだ。

こうして、わたしたちはこの世とあの世を分けて考えるようになります。それは、この世でもあの世でも上手くやっていくための処世術だと考えるようになります。イエスはそのような社会に対して、否を突きつけたのではないのかと思う人は少ない。イエスは優しいお方だから、「イエスがおっしゃるようにできなくても良い」と言ってくださると思う。神さまは愛に満ちた優しいお方なのであって、厳しいことはおっしゃらないと考える。こうして、わたしたちはイエスの言葉を薄めてしまうのです。

イエスが、社会に迎合して生きておられたならば、十字架に架けられることはなかったでしょう。みんなと仲良くやっていれば、誰もがイエスを好きになったでしょう。批判する人はいなかったでしょう。年老いて死ぬまで、イエスは平和に、仲良く暮らしました、で終わっていたでしょう。イエスが十字架で死ぬことはなく、復活することもなく、福音書が書かれることもなく、わたしたちの信仰もなかったでしょう。弱っている人、苦しんでいる人に立ち上がる力を与えることもなかったでしょう。「そのような人たちは不幸だけれど、多数の幸せのためには仕方ない」で終わっていたでしょう。ヨセフは世間の目を気にして、マリアとの婚約関係を解消し、マリアは石打にあって、イエスは生まれてこなかったかも知れません。こうして、何も変わらない世界が今も続いているでしょう。

神がイエスをこの世に派遣したのは、そのような世界が神の意志に反した世界だったからです。イエスは神の意志が生じることを願って、十字架を引き受けられたのです。イエスは、家を出て、十二弟子一人ひとりを呼び、彼らは家を捨てて、イエスに従った。家が大事、家族が大事とイエスがおっしゃっていたとすれば、彼らを呼ぶことはなかった。彼らを苦しみの中に放置しておけば良かった。この世でうまく生きて行くためには、処世術を学べば良かった。信仰などなくても、処世術さえあれば、この世は渡りやすくなる。地獄などあるかどうか分からないものに振り回されることなく、上手くやっていくことができたでしょう。バベルの塔のように、みんなで協力できれば、神さえもしのぐ高い塔を建てることができて、地上で神のように生きることができたかもしれません。もはや、神を信じる必要などなかったでしょう。それで上手く行くならば、信仰は必要なく、イエス・キリストの十字架も復活も永遠のいのちも、神の国も空しい幻想でしかない。そんなありもしないことを信じてどうするのだと馬鹿にされる。神の国が来るなら、どうして神はこの地上を今も維持しているのだと批判する人もいる。最後の審判がある、神の国が来ると2000年前にイエスがおっしゃったけれど、未だ来ていないではないか。イエスは本当にそんなことを言ったのだろうか。ただの気休めだったのではないのか。そうであれば、この世で上手くやっていく処世術を学ぶ方がどれだけ役に立つだろうか。わけの分からない神の言葉など聞いたところで、何の得があるのか。もっと得になることをイエスは教えてくれなかったのか。弟子たちも、十字架に架けられて殺されたのであれば、地上では何の得にもならないではないか。信仰に準じた人の最後は悲惨だったではないか。そのような信仰に生きるなんて誰も好まない。

わたしたちキリスト者は愚か者の集団なのです。愚かで、融通が効かず、付き合いにくい人たちなのです。愚かなので、話が通じないし、聴く耳を持っていないのがキリスト者という人たちなのです。そのような集団に誰が入りたいと思うだろうか。人間はもっと良いはず。もっと賢いはず。もっと上手く生きていけるはず。神などいない方が、人間関係は上手く行く。いや、もともと神などいないと知るべきだろう。神に頼る人間ほど、愚かな人間はいない。賢くなれ。

わたしたちの人間的理性は、このようにわたしたちに語り掛けるのです。それで良いではないかと語り掛けるのです。信仰など生き難くするだけだと語り掛けるのです。預言者たちも同じように迫害されたのだから、彼らの苦難から学ぶべきだろうと思うのです。迫害から逃れ、苦難を負わなくても良いように生きる方法を学ぶべきだろうと思うのです。これこそが、わたしたちの真実の心でしょう。そのような意味で、今日のイエスの言葉は、わたしたちの真実の心を現す剣です。真実を隠しているわたしたちの心の覆いを切り裂き、真実を現す剣。それがイエスの言葉です。

現された真実にわたしたちはどのように向き合うのか。イエスは、一人ひとりがそれぞれの真実な心に向き合うことを願って、今日も語り掛けてくださっています。向き合わず、わたしの真実な心のままで生きようと思う人がいるでしょう。向き合って、これではいけないのだと思う人もいるでしょう。神の意志はわたしの意志とは違うところにあるのだから、神の意志に従うように生きて行こうと思う人もいるかも知れません。神の意志は神の意志として、自分の意志を大切にしようと思う人もいるでしょう。人それぞれに決断することになる。その結果、家族の中でも対立が生じるかもしれない。家族の者が敵になる。家族が違う考えで生きるようになる。家族がばらばらになる。それでも、一人ひとりが真実の自分と向き合って、決断する。そのようになるために、イエスは来たのだとおっしゃっているのです。

最終的には、わたしたち人間は、一人で死んでいくのです。一人で生まれ、一人で死んでいく。母が苦しんで産んでくれたとは言え、誰かと一緒に産まれるわけではないのです。双子であろうとも、一人ひとりが産道を通るのです。それぞれに通り、それぞれに生まれ、それぞれの人生を生きる。それがわたしたち人間なのです。その一人ひとりを見守るお方がイエス・キリストです。一人ひとりが、ご自身の言葉に従うことを願って、語り掛けてくださるお方がイエス・キリストです。たとえ従わないとしても語り掛けてくださる。ただし、従う者には、ご自身と同じ苦難があることを教えてくださり、同じように苦難を越える力を与えてくださる。それがわたしたちの主イエス・キリストなのです。

このお方の言葉は真実です。このお方の言葉が真実を現す剣です。この剣によって裸にされた自分に向き合い生きるのがキリスト者。十字架のイエスに従い、苦難を生きるのがキリスト者。あなたの罪人としての真実を現し、裸にして、憐れみ、愛して、造り替えてくださるお方がイエス・キリスト、あなたの救い主なのです。愚かと言われようとも、主に従って生きて行く者でありますように。

祈ります。

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