「幼子に啓かれる知恵」

2023年7月9日(聖霊降臨後第6主日)
マタイによる福音書11章16節-19節、25節-30節

疲れているとき、休みたいと思うのは当然ですが、体が疲れていること以上に、魂が疲れていると体を休めても休まらないということがありますね。イエスが今日おっしゃる言葉でもこう言われています。「あなたがたは発見するであろう、あなたがたの魂に、休むべき場所を」とイエスはおっしゃっています。「魂の休むべき場所」、それはイエスご自身のことですね。「柔和な者、心の低くされている者」であるイエスご自身のところで、あなたがたの魂が休むべき場所を発見するであろうとおっしゃいます。

体の疲れは、魂の疲れが現れるということでもあるでしょうから、イエスは魂の休むべき場所としてわたしが存在しているのだとおっしゃっているわけです。魂が休まることによって、わたしたちは再び立ち上がることができます。魂が休まらないならば、立ち上がる力も出て来ませんね。イエスの許で、魂の休む場所を見出した人は、何もできない状態に置かれた人だとも言えます。もう、これ以上は何もできないと倒れ込んでいる人たち。そのような人たちにイエスは魂の休むべき場所として、ご自身を与えてくださるということです。そして、ご自身と同じ「軛」を負わせてくださる。

軛というものは、荷物を運ぶ動物の首にかけられた荷物とその動物をつなぐ道具ですね。その軛が動物にぴったり合っていれば楽なのですが、合っていないと苦しくなるということです。それでイエスはこうおっしゃっています。「わたしの軛は負いやすい」と。イエスが与えてくださる軛は負いやすい、あなたにぴったりの軛だというわけです。イエスは、一人ひとりが負いやすい軛を与えてくださるとおっしゃっているわけです。この軛を着けられた人は、今まで苦しんでいたところから解放されて、楽になるというよりも、負うことが苦しかった荷物を、苦しまずに負うことができるということです。

この軛は誰かに負わされるものですが、イエスに負わされたと受け取る魂にとっては、イエスが負うようにしてくださった荷物だと受け入れられるということです。イエスが「柔和で、低くされている」とおっしゃる言葉が表しているのは、低くされている人たちの魂の苦しみをイエスが同じように感じることができるという意味です。柔和な人は、人に押しつけられたものを断ることができず、負ってしまうでしょう。そのような負わされる苦しみをイエスはご存知なのです。しかし、負わされたものを、イエスが負わせてくださったものとして、新たに受け取り直すとき、わたしたちキリスト者はイエスの荷物として負っていくことができるでしょう。イエスが、わたしにぴったりの軛を用意してくださって、負いなさいと言ってくださった荷物だと受け入れることができるでしょう。

わたしたちは、自分に負わされたものに対して、「どうして、わたしが負わなきゃならないのか」と思い、「仕方なく負っているのに」と思います。負わせた人間を恨みたくもなります。そのような魂の苦しみを抱えている人々が、イエスの許に集まってきたのです。病人、罪人、排除されている人たちがイエスの許に集まってきました。彼らには行くべき場所がなかったのです。社会の上層部にいた人が、病人になって失墜することもあったでしょう。一度の過ちが罪人として認定され、公職を追われるということもあったでしょう。もともと、貧しかったという人だけではないのです。どこの社会においても、人々から嫌われ、追い出され、陥れられることが起こります。誰でも、そのような境遇に陥ることが起こります。今は、病人であり、罪人であり、排除されている人たちであっても、生まれてからずっとそうだったわけではないのです。イエスの許に集まってきた人たちは、人生の浮き沈みの中で苦しんできた人たちなのです。神がおられるなら、このようなことにはならなかっただろうにとも思ったでしょう。そのような人たちがイエスの許に集まってきた。どこにも行けなかったからです。イエスはそのような人たちに語っているのです。

わたしたち人間は、現在の状態をずっと維持できるわけではありません。体が不調をきたして、動くことがままならないということも起こります。妬ましく思っている人から蔑まれ、攻撃されないために、いつも緊張していなければならないということも起こります。自分を守ってくれると思っていた人から裏切られることもあります。そのような自分自身も同じようにしてきたのでもあるでしょう。自業自得。因果応報。などと言われることもあるかもしれません。そのような状態に陥ったとき、わたしたちの体だけではなく、魂そのものが苦しい状態に置かれてしまいます。そのようなあなたに、イエスはおっしゃっているのです。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と。

イエスの軛はわたしが負っていこうと思える負いやすい軛だと先ほど言いましたが、その上で「わたしに学びなさい」とおっしゃっています。この言葉は、「弟子になる」という言葉からできています。学ぶということは、イエスに弟子入りして学ぶということです。イエスと同じように生きてみて、学ぶということです。イエスがおっしゃる言葉は、イエスの人生から語られています。ですから、イエスから学ぶということは、イエスの人生から学ぶことでもあるわけです。イエスの人生は十字架に至る人生です。負わされた十字架を、神の意志が完成するためにわたしが負うべき十字架なのだと負ったお方がイエスです。このお方が「わたしに学びなさい」、「わたしの弟子になりなさい」とおっしゃっているのです。イエスの弟子になり、イエスと同じように生きてみて、はじめて学ぶことができるということです。

わたしたちは、負わされたものに苦しむとき、負わせた人の責任を追及したくなります。また、負わせている人が、「それは神さまがあなたに負わせたのだから、文句を言わずに負いなさい」と言ったとしたらどう思うでしょうか。そんなに言うならば、自分で負って見ろと言いたくなりますね。イエスがおっしゃるのは、一人ひとりが自分の十字架を負うことです。人に十字架を負わせて、神が負わせたのだと言うことではありません。

何もできない状態に置かれてしまった病人、罪人、排除された人たちは、学ぶことができなかったのです。学ぶためには、先生が必要でした。学ぶ時間もなかった。物乞いをしているしかなかった。そのような人たちが、イエスの許で学ぶ機会を与えられたのです。「わたしに学びなさい」という言葉は、イエスが彼らの先生になってくれるということでもあるのです。イエスから学ぶためには低くされている必要があるとも言えます。その低くされている存在の代表は幼子だとイエスはおっしゃっています。幼子は、ただ受けるしかない存在です。そのような存在に「知恵」が啓かれたとイエスはおっしゃっています。イエスに学ぶということは、神さまからの知恵を受け取るということです。幼子のように与えられるものを素直に受け取ることです。そのとき、知恵が啓かれるのです。

素直に受け取らない知者や賢者には啓かれない神さまの知恵。それがイエスに学ぶということです。一般的な知恵とは正反対の知恵です。その知恵の働きは、魂が向いていた方向を変えてくれるのです。人の所為にしていた人が、自分で負っていく方向に向かう。神さまの恵みとして負い、イエスに従って行く。そのような歩みを始めるために、イエスはわたしたちのところに来てくださったのです。あなたが、イエスをまっすぐに見上げ、イエスの十字架に示されている神の知恵を受け入れるならば、あなたの魂も休みを得るでしょう。そして、自分の十字架を取って、イエスに従い、学ぶ者となっていきます。

あなたが幼子のようにただ受け入れるようにイエスに学ぶとき、あなたにも「幼子に啓かれる知恵」が啓かれていきます。その知恵は、あなたのうちに働いて、真実の神の世界を見せてくださる。この世の価値とは正反対の価値を見せてくださる。イエスの十字架を通して見せてくださる。悲惨に思える十字架が、あなたを導く神の言葉として見えてきます。幼子に啓かれる知恵があなたのうちにも啓かれていきますように。祈ります。

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