「耳を持っている人」

2023年7月16日(聖霊降臨後第7主日)
マタイによる福音書13章1節-9節、18節-23節

耳を持っていない人はいません。聞こえない人はいるでしょうが、聞こえていても聞いていない人がいます。聞こえなくても、聞こうとしている人がいます。どちらが耳を持っている人でしょうか。イエスが今日語っているたとえを自分のこととして聞く人は「耳を持っている人」でしょう。他人事として聞き流している人は「耳を持っていない人」でしょう。身体的に耳があるかないかではありません。イエスがおっしゃっている「耳を持っている人」とは聞こうとしている人であり、自分に語り掛けられていると聞いている人のことです。

イエスのたとえを聞いて、「ああ、あの人のことだな」と聞く人と、「ああ、わたしもこんな風だな」と聞く人では違います。イエスは、わたしたちがどのように聞くべきなのかを問うておられるのです。自分自身のこととして聞くようにとおっしゃっているのです。

今日のたとえの中で、自分はどの土地だろうかと思う人はいるでしょう。しかし、ここでイエスが語っておられるのは、あなたがどの土地であるかでしょうか。良い土地として、誉められたいと思う人もいるでしょう。他の土地にはなりたくない。誉められるために、良い土地になろうと思う人もいるでしょうね。はたして、そうなのでしょうか。イエスは、良い土地を誉めているのでしょうか。他の土地を非難しているのでしょうか。

種は「御国の言葉」だとイエスはおっしゃっています。「御国の言葉」を聞いて「悟る」ことが、種が土の中に受け入れられるようなイメージとして語られています。良い土地になるためには、素直に受け入れることが必要なのだとイエスはおっしゃっているのでしょうか。道端、石地、茨の地、良い土地は、それぞれに存在しています。入れ替わることができません。道端は道端です。石地も石地。茨が生える土地もある。そして、良い土地もある。これは自然の必然だと言えます。すべてが良い土地になることはないのです。

昔の種蒔きは効率的ではありませんでした。今は、効率を考えるので、良い土地にしか種を蒔かないかもしれませんが、昔はそこら中に種を蒔きました。それで、道端に落ちる種もあり、石地に落ちる種も、茨の中に落ちる種もあったのです。いずれであっても種たちの落ちるところだったのです。良い土地にばかり種が落ちるわけではない。それでもなお、良い土地に落ちた種が、他の土地に落ちた種が結ぶことができなかった実り以上に実を結ぶ。それで良かったのです。

自然は嘘をつきません。そのままに自然です。神が造られたままに自然です。別の個所でイエスがおっしゃるように「地は自ずから実を結ばせる」ようになっています。それが、神が造られた自然、自ずから然りである自然です。しかし、自然が自ずから然りと実を結ぶことを妨げるものも存在します。道端では鳥が種を食べてしまう。石地では、根を張ることができない。茨の中では、芽を出して伸びようとすることを妨げられる。このような妨げがあるのも自然です。人間が種を蒔くわけではない雑草のような花がありますが、風が種を運んで落ちたところがどのような土地かによってその種の行く末は分かれます。土地そのものが良いか悪いかは、種自身には分かりません。種が良い土地を選んで落ちるわけにはいかないのです。邪魔が入るかも知れない土地にも落ちてしまうのです。

わたしたちは、たとえという言葉を聞くと、何か教訓が語られていると思いがちです。それで、どのような教訓が語られているのかと説明を求めたくもなります。イエスがこのたとえの説明をなさっているところを読んでみても、教訓ではありません。ただ自然の事実を語っておられるだけです。では、イエスのたとえとはいったい何でしょうか。

今日の日課では、省かれてしまっていますが、10節から17節にたとえで話す理由が述べられています。イザヤ書の言葉が引用されてこう言われています。「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」。イエスがこのイザヤの言葉を引用しているのは、たとえで語ることで、心で理解せず、悔い改めないことが起こることを見越しているということです。たとえはたとえですから、それを自分自身に当てはめるか否かによって聞いているか否か、見ているか否かが分かれるのです。

旧約聖書においては、神が幾度となく率直に語り続けたのに、聞かなかった民の姿が記されています。それゆえに、イザヤは神の命令を聞いたのです。イザヤは、「誰を遣わすべきか」とおっしゃる神に「わたしをお遣わしください」と応えます。そのとき、神はこの言葉を語ったのです。イザヤを遣わすに当たって、神は「彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らを癒さない」とおっしゃったのです。つまり、聞く人が聞く、見る人が見るというだけだと神ヤーウェはおっしゃっているのです。どれだけ聞かせようとしても聞く人しか聞かないだろうということです。それがわたしたち人間の罪深い姿なのです。

ですから、この種蒔きのたとえで語られているのは、あらゆるところに蒔かれた種を受け入れる土地と受け入れない土地があるということです。何故、受け入れないかと言えば、受け入れない土地だからとしか言えないわけです。受け入れる土地が受け入れるということです。そうなると、わたしたち人間はどの土地なのだろうかと不安になるかも知れません。不安になって、良い土地になれば良いのだと考えるでしょう。しかし、そうはなれないのです。あなたが良い土地になろうとしてもなれません。あなたはあなたなのです。石地であれば石地です。道端であれば道端です。茨の土地であれば茨の土地です。そこから変わることはできません。

どうしたら良いのかと思うでしょう。その思いこそが、わたしたちを自然から引き離す思いです。自然は、どうしたら良いのかと考えることはありません。それぞれの土地として生きているのです。それぞれの土地であることで良いというよりも、そのような土地でしかあり得ないということです。そこに良いも悪いもないのです。

さらに言えば、わたしが良い土地で、素直にみことばの種を受け入れているかどうかさえも、良い土地自身は気にしてはいません。ただ受け入れている。受け入れることが当たり前になっているというだけです。ですから、わたしは受け入れている良い土地だと自負することもありません。もし、自負するならば、石地や茨になるかも知れません。わたしたちが、イエスのたとえを「耳を持っている人」として聞くならば、わたしは道端のようになっていないか、わたしは石地のようになっていないか、わたしは茨に埋もれてしまってはいないかと自らを顧みるでしょう。それだけで良いのです。自らを顧みる魂は、良い土地です。なぜなら、イエスの言葉、神の言葉を素直に受け入れて、自らを顧みているからです。そのような人は、いずれ神に用いられるのです。30倍、60倍、100倍の実りをもたらす土地として、用いられるのです。

あなたが「耳を持っている人」であるかどうかは、あなたが誉められるためではありません。良い土地が誉められるために、良い土地であるわけではないのと同じです。良い土地はただ受け入れているだけです。ただ自らを顧みているだけです。そして、知らずに実を結んでいる。30倍、60倍、100倍の実を結んでいるのです。ということは、良い土地は30分の1、60分の1、100分の1だということです。それほどに少ないのが良い土地なのです。

イエスのみことばを聞く「耳を持っている人」は必ず聞くのです。しかし、とても少ない。それがキリスト者です。その耳をあなたがたは与えられている。あなたがたの耳がさらに機能するように、イエスはご自身の体と血を与えてくださいます。イエスご自身の言葉があなたのうちに受け入れられるならば、イエスの体、イエスの血として働いてくださるのです。恵み深い神のお働きにあなたは与っている、キリストの言葉によって。

祈ります。

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