「隠れている天の国」

2023年7月30日(聖霊降臨後第9主日)
マタイによる福音書13章31節-33節、44節-52節

神さまは隠すことがお好きなようです。いろんなものを隠しているので、見つけた人は喜びます。そして、隠した神は、かくれんぼをしているように、見つからないようにと陰から見ているのかも知れません。でも、見つけて欲しいのでもあります。

今日のイエスのたとえは、隠されていたものを発見した喜びを語っています。隠されていたものは高価なもので、見つけた人は大喜び。全財産を売っても惜しくないと売り払います。隠されたものが天の国だとイエスはおっしゃっているようです。天の国は隠れている。見つけて欲しくて、神さまは隠している。見つけた人が喜ぶ姿を神さまは見て、喜ぶ。ということのようですが、大きな網のたとえはそうではありません。そして、最後に語られているのは、古いものと新しいものを倉から投げ出す家の主人です。この主人が天の国のことを学んだ学者と同じだと言われています。天の国のことを学ぶと、すべてのものを投げ出すのだというわけです。

発見された隠された宝が天の国のことであり、網に集められた魚と同じように良いものと悪いものを選り分けることも天の国である。最終的に新しいものと古いものすべてを投げ出すのが、天の国のことを学んだ人だと言われています。天の国のことを学ぶことで、倉に収めておく必要はなくなるということです。何故なら、すべてが現れているからです。隠しておく必要もないのです。すべてが明らかなので、すべてを外に投げ出す。でも、分かる人にしか分からない。倉の中のすべての宝、古いものと新しいものが天の国だとは言われていません。隠されている宝は、元々はわたしたちの日常の中にあったものです。つまり、日常に隠されているのが天の国であり、すべてを理解した学者は、隠す必要がなく、すべてを現れているままに投げ出す。倉の中に納めて良いものだけを大切に守る必要もないということです。

わたしたちは、大切なものを倉に納める。自分だけが倉に入って、秘かに楽しむ。しかし、天の国は秘かに楽しむものではなく、どこにでもあるのですから、特別に倉に入れておくようなものではないのです。倉に大切に保管していると思っていたものは、日常ですべての人が使うものと何も変わらないということです。見える人には見える。見えない人には見えない。すべての人が見ることができる。しかし、見る人が見る。隠れているが隠れていない。それが天の国なのです。

わたしたちの日常に天の国は隠れているようで、隠れてはいない。ただ、人間が見つけられないだけ。神さまは隠して楽しんでいるわけではないのです。どこにでもあるもの、日常にあるものに天の国はあるのに、見つけることができない人間に、見つけて欲しいと願っているのが神さまなのです。イエスは、たとえでそのことを教えてくださっているのです。

からし種のたとえも、パン種のたとえも、誰もが知っていることです。イエスは何か特別な秘密を語っているのだとわたしたちは考えてしまいますが、イエスは誰もが知っていることを語っているだけです。このたとえは、わたしたちの日常にあることです。それが天の国だとおっしゃっているのです。天の国は日常の中に存在しているのです。それを発見した人は、「なーんだ、そういうことなのか」とすべてを投げ出すようなことだというわけです。

イエスの時代、天の国に入るために、一生懸命勉強して、入る方法を考えていたようです。それが律法学者や聖書学者たちでした。彼らは聖書をいろいろ調べて、聖書の中に秘密が隠されていると考えていました。しかし、イエスは、聖書が語っている宝が日常の中にあるとおっしゃっているのです。天の国は、わたしたちの日常に存在している。わたしたちが見つけられないだけ。わたしたちの目が曇っているからです。罪によって曇っているために、日常の宝が見えなくなっている。それだけなのです。

わたしたちが陥った罪は、アダムとエヴァの出来事に記されていますが、彼らは神が食べてはいけないとおっしゃった言葉が気になっていました。蛇に唆されて、彼らは神が禁止したことがとても大切なものを神が隠しているからだと思わされたのです。彼らが禁断の木の実を食べた後、エデンの園を追放されるのですが、それは今まで日常であった天の国から追放されたということです。日常であった天の国を見失ったということです。それ以来、わたしたちは天の国に戻ることを考えてきました。追放された楽園、天の国が恋しく、何とか帰りたいと考えてきたのです。それで、天の国に入るには、良い人になって、神さまの戒めを守っていれば入ることができると考えるようになりました。自分たちが守ることができる戒めの数を増やしていけば、入ることができるだろうと考える段階で、まったく見当違いの方向に生きることになったのです。その競争から、落ちこぼれた人たちを罪人として排除し、病気の人も同じく罪を犯したから病気になったのだと考えるようになりました。網の中の魚を分けるように、自分たちが分けたのです。しかし、分けるのは神さま。神さまは、人間によって分けられた人たちをイエスの許に呼び集められたのです。

イエスは彼らにありのままの天の国を教えました。貧しくても、天の国を求めている人は天の国を持っているということを教えています。悲しんでいる人も神さまに慰められることで、天の国にいるのです。迫害されても、天の国はその人たちのものとして厳然とあるのです。この福音をイエスは宣べ伝えました。そして、たとえを通して、日常の中に隠れている天の国を教えてくださったのです。アダムとエヴァが追放されたと思っていたのに、実は彼らの目が曇ってしまっただけだった。わたしたちも彼らと同じく罪の目によって、曇らされている。世界の中に、日常の中に天の国はあるのに、見えていない。それだけなのです。

神さまは、かくれんぼをしているわけではありません。神さまは、わたしたちの目が開かれることを願っているのです。発見した宝も、実はそこにずっとあった宝なのです。でも、誰も見つけることができなかった。たまたま見つけた人が大喜びする。しかし、たまたま見つけたのかと言えば、そうではないのです。見つけるべき人が見つけたのです。誰も気にしていないようなところを気にする人がいた。その人が見つけたのです。だとすれば、その人は、宝の方から見つけられた人かも知れません。どうして、そうなるのかと言えば、宝は見られるためにそこにあったからです。宝が隠れていたのではなく、発見していない人にとっては隠れているように思えただけです。誰でも、素直に目を開けば見ることができる。それが日常の中にある天の国なのです。

そのような天の国をイエスは教えてくださっています。天の国は、あなたのそばにある。日常の中にある。隠れているのではなく、あなたの目が見ていないだけ。隠れている天の国は、素直に見て欲しいのです。あなたの目が開かれれば、そこにあるのです。素直に、目を開いて、先入観を捨てて、見てみましょう。天の国は、わたしたちの日常にすでにあるのです。

誰もが近づくことができる天の国。それは、天の国の方が近づいたということです。だから、イエスは宣教の始めにこうおっしゃっています。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と。悔い改めるということは、見方を変えること。閉じていた目を開くこと。方向を変えて、見直してみること。すでにあるのに、見ていなかったものに目を留めることなのです。それが、イエスがたとえで教えてくださっていることです。すべてのものを投げ出してしまう家の主人は、天の国をすべてのものの中に見つけた人なのです。すべての人に開かれている神の知恵を見出した人なのです。隠れていない天の国を見出した人なのです。

今日、共にいただくパンと葡萄酒の中に、イエスご自身がおられる。イエスご自身がおっしゃった通り、パンと葡萄酒がイエスご自身です。パンと葡萄酒の中に隠れているようですが、イエスの言葉を素直に受け取るあなたには隠れていないのです。天の国もイエスご自身もあなたの目の前にあるのです。感謝して受けましょう。

祈ります。

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