「イエスだけを見つめて」

2023年8月13日(聖霊降臨後第11主日)
マタイによる福音書14章22節-33節

わたしたちは見なくて良いものを見てしまうもの。見るべきではないものを見たくなってしまうもの。「見なさい」と言われると見たくない。「見るな」と言われると見たくなる。見なくて良いものを見ないでいることができない。それがわたしたち罪深い人間です。

アダムとエヴァが神さまに禁じられた木の実を食べたのも、食べるなと言われていたのに、見てしまい、「食べるに良さそう」だと思ったからでした。食べたならば自分にもっと力が与えられるのではないかと考えたからです。そして、罪を犯してしまった。わたしたち人間は、見るべきではないものを見たくなる。恐いもの見たさということが起こるのです。そして、不安になる。端から見れば、「見なきゃ良いのに」と思うようなことでも、直面している本人は見たくなる。それが罪の誘惑です。

今日、ペトロが「風を見て、恐くなった」と記されているのも同じ罪人の姿です。イエスだけを見て、イエスの言葉を信じて、歩いていれば良かった。それなのに、「風を見た」のです。風などというものは見えないのですから、見なくても良いと思えますが、「風を見た」のです。それは、ペトロのうちにあった不安の風を見たということでしょう。イエスを見ていた心が、風を見る方に向いてしまった。それで、不安が増幅した。

わたしたちは不安を増幅する方向で物事を見ているものですが、その不安は大抵現実にはならないということも経験済みです。しかし、不安が好きなのか、不安を感じてしまうものです。不安を見ないようにするために、他者と比較して、自分は安心だと思い込むこともあります。人間は自分の不安を他者との比較によって忘れようとするものです。ところが、根本的に心のうちに不安を抱えていますから、比較を繰り返してしまう。繰り返す比較によって、不安が一時的に見えなくなるかもしれませんが、自分自身を造ったお方を信じていないので、再び不安が身を起こしてきます。このような人間の姿をペトロたちは教えてくれているのです。

イエスが群衆を解散させている間に、彼らは舟に乗せられて、向こう岸に行くように命じられました。イエスがいない不安のまま舟に乗って、向こう岸に進んで行く。そこに、後からイエスが湖の上を歩いてやって来る。怖かったと思います。彼らが言うように「亡霊」や「幽霊」だと思っても仕方ありません。そして、不安がふくれあがる。何が不安なのかと言えば、そのような亡霊を見ている自分たちに悪いことが起こるのではないかと思う不安です。この幻影、亡霊というものが自分たちに悪さをするという考えが迷信だと言われても、亡霊だと思うと途端に不安になる。自分たちのうちにある不安がふくらんでいく。そして、悪い方向へと考えるようになっていくのです。

このような人間の思いをイエスはご存知ですから、すぐに声をかけました。「わたしだ」と。この言葉は「わたしは存在している」という言葉です。幻影でも亡霊でもなく、「現に存在している」とイエスは言うのです。イエスが弟子たちに語り掛けた言葉は三つです。「勇気を出せ」、「わたしは存在している」、「恐れるな」という三つの言葉です。勇気を出すこと、現に存在しているイエスを見ること、そして恐れないこと。これらが、わたしたちが抱えている不安を取り除くのです。しかし、これらの言葉が語っているわたしたち人間の状態は、ある種の賭け事のように思えるものです。「勇気を出す」ことと「恐れない」こととは、無鉄砲な行為をする場合にも語られるものです。何の根拠もなく、「勇気を出す」、「恐れない」ということもありますね。ところが、イエスの言葉には、その間に「わたしは存在している」という存在の現実を述べる言葉が語られています。しかも、この言葉は「勇気を出しなさい」とか「恐れてはならない」のような命令形の言葉ではありません。イエスご自身の存在が現にここに存在しているということを述べているだけの言葉です。この言葉だけが確かなのです。そして、勇気を出すことや恐れないことの根拠となる存在がイエスご自身の現在であるということです。

その言葉を聞いたペトロは本当にイエスなら、自分に命じて「湖の上を歩かせることができるだろう」と考えました。イエスが本当に水の上で存在しているのであれば、自分も同じように存在できるはずだと考えたのでしょう。「水の上をあなたのところに行くように、わたしを呼んでください」とペトロは言います。イエスは「来なさい」とペトロを呼ぶ。水の上を歩き始めたペトロは風を見て、恐くなった。ペトロは沈みかけ、「主よ、わたしを救ってください」と叫ぶ。イエスは、手を伸ばして、彼をしっかり握ったと記されています。ペトロが救われたのは、イエスに向かって叫んだからです。イエスに向かって叫ぶこと、イエスだけを見ること、イエスがペトロに求めていたのは、それだけだったのです。わたしたち人間が救われるためには、イエスを求めるだけで良いのです。他のものは不安を与えるだけ。他のものは助けにはならない。人間には救う力はない。イエスだけがわたしを救う力がある。この信仰を起こされたのは、ペトロが沈みかけたからです。不安のゆえに沈みかけたペトロの前にイエスが存在しているからです。

生きていく上で、不安はいつでも起こってきます。現代社会を見れば、日本は大丈夫だろうか。自分の将来はどうなるだろうか。さまざまな不安に満たされてしまうことで、わたしたちは動けなくなります。恐らく、ペトロも風を見て、不安になり、足を止めてしまった。イエスだけを見て、イエスだけを信じて、歩いていれば良かったのに、歩くことを止めて、「大丈夫か」と思ってしまう。それで沈むのです。

不安はいつでも起こる。不安は、わたしたちが生きていくことを妨げる。それは悪魔の働きです。神を見続けることができないように、悪魔はわたしたちの視線を逸らせてしまう。神を信じることを捨てさせようとする。神を疑うように導いてしまう。お前が、沈んでいるのは、お前の信じる力が不足しているからだと思わせる。こうして、わたしたちは信仰さえも自分の力だと思い込まされる。しかし、信仰は人間の力ではありません。神がわたしたちのうちに注ぎ込むのが信仰です。神の言葉を聞いて、わたしたちがその言葉に従う心が起こされるとき、わたしたちは信仰を起こされているのです。

しかし、信じてもなお、不安の中で、見てはならないものを見るのがわたしたち人間。そのような人間に向かってイエスは言うのです。「現に存在しているわたしを見なさい。わたしの言葉を聞きなさい」と語りかけてくださる。このお方の言葉は、あの十字架の言葉です。いかなる苦難においても、神がわたしを生かしてくださると信じる力は、あの十字架から来るのです。死んでもなお生きているイエス・キリストが語り掛けてくださるのです。

誰でも不安になる。誰でも先は分からない。悪いことばかり考えてしまう。そして、何とか自分だけは上手くやれるように立ち回ろうとする。こうして、神から引き離すのが不安の力です。人間関係の中で、受け入れられず批判されると不安になることもあるでしょう。しかし、神が造られたあなたはあなたなのです。あなたは自分を造った神を信じていれば良い。神が為し給うことだけが実現すると信じていれば良い。神は悪いようになさることはないと信じていれば良い。すべてのことは神のご意志に従ってなっていくのです。

ペトロを呼んでくださったイエスは、わたし以外を見るなとおっしゃっているのです。わたしたちが見るべきはイエス・キリスト。このお方だけが嘘偽りない真実を生きてくださったお方。十字架のイエスがあなたに生きる力を与えてくださるお方。確かに存在しているイエスこそが、あなたが信仰によって見るべきお方なのです。イエスの言葉を聞くということは、イエスご自身が現にわたしの前に存在しておられるという信仰のうちに聞くことなのです。イエスの言葉を聞き、イエスのみを見つめているならば、あなたは沈むことはない。たとえ不安に沈んだとしてもイエスはあなたの手をしっかり握ってくださるのです。

祈ります。

 

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