「何によって愛するか」

2023年8月6日(平和主日)
ヨハネによる福音書15章9節-12節

愛という言葉は誰でも好きですね。愛というものは誰にとっても同じだと思っています。しかし、愛することを動かすものが何であるかによって、愛は違ってきます。

ギリシア語で愛という言葉には三つあります。フィリア、エロス、アガペーです。フィリアは、友愛ですが、友人同士の愛情のことで、仲間同士の愛情のことです。仲間以外は愛さないのですが、これが互いに愛することだとわたしたちは思っています。次に、エロスですが、この愛は情愛というもので、男女の愛や親子の愛のことです。この愛は、血がつながっていることだけではなく、何か結びつけられているものに従って愛する愛です。結びつけるものがなくなったときには、憎しみに変わってしまうような愛です。最後に、アガペーですが、この愛は神の愛に用いられていますけれど、無償の愛のことで、友愛とも情愛とも違って、交換することがなくても愛する絶対的な愛です。今日の日課で、イエスが語っている愛は、このアガペーです。イエスが弟子たちに求めているのは、「互いを愛する」ということですが、この愛の動機は「わたしがあなたがたを愛した」というイエスの愛だと言われています。そのイエスの愛のうちに生きているならば、あなたがたは「互いを愛する」愛を生きることができるであろうとおっしゃっているのです。

最初に言いましたように、わたしたちが「互いを愛する」という場合に考えるのは、仲間内の愛、友人同士の愛のことですね。この愛は、自分も仲間に入れてもらうために愛する愛です。通常わたしたちが「互いを愛する」という場合には、仲間に入れてもらうという目的を持っているのです。仲間に入れてもらえれば、その中で「互いを愛する」ことができるというわけですね。このような仲間同士の愛は、仲間はずれにされた人を愛することはありません。誰かが、仲間の掟を破ったとか、力のある仲間から嫌われたという場合、他の仲間もその人を排除するようになっていきます。仲間の敵は、仲間に入れてもらえないので、憎まれるということになります。それまで、仲間として「互いを愛する」ことが実現していたと思われていたのに、そこから外されることになると、憎まれる存在になります。それはまた、内輪同士で「互いを愛する」ことを妨げないためであると考えられています。目的を持った愛は、仲間を作りますが、仲間はずれも作るのです。仲間はずれにする愛なのに、わたしたちは「互いを愛する」ことだと考えています。これが「互いを愛する」ことだとは誰も思わないでしょうが、仲間内では「互いを愛する」ことだと思われているという不思議な状態が生じるのです。それを誰もおかしいとは思わないのです。イエスが求めている「互いを愛する」という愛は、このような愛ではありません。

情愛では、情に基づいて愛するのですが、このような愛は理由がないとも言えます。目的もありません。親子の情愛のように、自然に芽生える愛です。親が子を愛する場合に、こどもから何かを得ようとして愛するなどということはありません。むしろ、何も得なくても愛します。しかし、情がなくなるということも起こり得ます。どうしてそうなるのかは分かりませんが、なくなってしまう人もいるのです。その場合、どうしてこんな人を愛していたのだろうかと思うようになります。そして、離れて行くことも起こります。親子でも、情が湧かないという人もいるようです。神さまが結び合わせてくださったのであれば、神さまが離れるようにしてしまうのかもしれませんが、どうしてそうなるのかは分かりません。ただ、情がなくなってしまうということでしょう。これも不思議な愛です。わたしたちがコントロールできないのです。

友愛にしても、情愛にしても、わたしたち人間はコントロールしているように思っていますが、それができないのです。何かを失ってしまえば、愛することはできなくなります。このような愛は真実の愛ではないのでしょう。では、アガペーはどのような愛でしょうか。

アガペーが神の愛であり、無償の愛であるならば、何かを求めて、愛するわけではありません。また、情というような不確かなものに動かされる愛でもありません。目的もなく、情もなく、ただ愛する愛です。敵であろうと愛する。自分を迫害する者も愛する。そのような意味で、イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いを愛しなさい」とおっしゃっているのです。つまり、仲間だから愛するわけではなく、仲間に入れてもらうために愛するわけでもない。また、何か分からないけれど、情が湧くから愛するのでもない。何によって愛するのかと言えば、イエスの愛によってとしか言えないのです。ですから、今日の個所でイエスは最初と最後にこのように言っています。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と最初に言います。そして、最後には「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」とおっしゃっています。つまり、「わたしがあなたがたを愛した」というイエスの愛が「互いを愛する」ことの原動力だと言っているのです。

イエスの愛は、一人ひとりを愛してきた愛です。イエスの愛を受け取ったのは一人ひとりです。イエスは自分の集団に入る人を愛したわけではないのです。イエスは、弟子たち一人ひとりをご自身の愛の中に招き入れた。その愛の中に留まりなさいとおっしゃっています。ということは、イエスの愛の中に留まっているひとりのわたしが「互いを愛する」愛に生きることができるということです。「互い」という言葉が入っていますと、愛を交換することだと考えがちです。ところが、イエスの愛は、ひとりのわたしを愛してくださった愛です。しかも、何も求めることなく愛してくださった。イエスはひとりのわたしを愛してくださった。その愛の中に留まっているわたしは、イエスの愛に基づいて、誰かを愛する。その誰かもまた、イエスに愛された愛の中で、誰かを愛する。つまり、イエスの愛が一人ひとりを包んでいて、包まれている人は、イエスの愛に基づいて誰かを愛するのです。イエスはそのために、わたしを愛してくださった。イエスの愛から始まって、わたしが誰かを愛する。続いて、わたしに愛された人が誰かを愛するというのではなく、イエスに愛された人が誰かを愛するのです。常に、イエスの愛が一人ひとりの愛の源泉だということです。イエスが言う「互いを愛する」という出来事は、イエスの愛アガペーによって動かされる出来事なのです。

この愛は、友愛とは違うと言いましたが、今日の日課の後では、イエスが弟子たちを「友と呼ぶ」とおっしゃっています。では、友愛ではないのかと思うかも知れません。しかし、イエスは「友のためにいのちを捨てる」と言い、「これほどに大きな愛はない」と言うのです。それは人間の仲間内の友愛を指しているのではなく、友と呼んだ一人ひとりのためにいのちを捨てるのが、イエスの愛であるとおっしゃっているのです。弟子たちは、互いに友になったのではなく、イエスが一人ひとりを友と呼んだがゆえに、互いにイエスの友なのだと認識するということです。これは人間的な友愛をはるかに越えた愛です。いのちを捨てる十字架の愛。この十字架を、わたしを友と呼んでくださったイエスの愛として受け取る人は、友としてイエスが愛してくださったように「互いを愛する」のです。

このような愛に生きて欲しいからこそ、イエスは「わたしの愛のうちに留まりなさい」と言うのです。十字架の愛のうちに留まりなさい。そうすれば、あなたは何かを得ようとするためではなく、何か分からない情に流されるのでもなく、理性的な愛を生きることができると、イエスはおっしゃっているのです。神の愛であるアガペーは理性的な愛です。イエスの愛に基づいた愛ですから、敵を作ることなく、誰かを排除するような集団を作ることもなく、平和を作る愛なのです。わたしたち一人ひとりがイエスの愛を受けたたったひとりのわたしとして生きるとき、世界の片隅から平和が広がっていく。イエスの平和が広がっていくのです。

祈ります。

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