「欠片にもすべてがある」

2023年8月20日(聖霊降臨後第12主日)
マタイによる福音書15章21節-28節

「たったこれだけか」と思うことがないでしょうか。「あの人はあんなにもらっているのに、わたしはこれだけ」と思うことは、他者がもらった量と自分がもらった量との比較ですね。このような比較は、わたしたちが生きている世界においては当然起こってくることです。そこにある価値観は、大きなものが良いという価値観です。たくさんのものを持っていることに価値があるという考え方です。果たして、そうなのでしょうか。わたしたちは自分の持っているもので、わたしの価値を誰かに計られているのでしょうか。また、神さまが一人ひとりに与えた量によって、神さまから見たその人の価値が決まるのでしょうか。そんなことはありません。神の目から見れば、すべての人は同じです。皆罪人です。この世で社会的地位を持っている人も、財産をたくさん持っている人も、何の地位もない人も、貧しい人も、神の前には同じ罪深い人間です。安心を得るために貯め込んだ財産やその結果の地位などを取り除いたあとに残るわたし自身が神の前に生きているわたしです。それだけが大事なことなのです。

今日のカナンの女の出来事の前には、昔の人の言い伝えについてのイエスの言葉が記されています。そこで引用されているイザヤ書の言葉はこう語っています。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」。どれだけ律法を守っているように見せていても、その心が問題なのだと神さまはおっしゃっているわけです。この世の価値を取り除いたあとに残る裸のわたし自身が如何に生きるのかという問題なのです。

さて、今日の日課の最後で、カナンの女の信仰をイエスは誉めています。「あなたの信仰は立派だ」と。原文は「あなたの信仰は大きい」です。ここでイエスが言う「大きい」というのは他者との比較においての量の問題ではなく、もっと別の次元の事柄です。カナンの女がイエスの拒否に思える言葉に対して言う言葉にはこのような表現があります。「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と。この「パン屑」という言葉は「パンの欠片」という言葉です。欠片や屑は、床に落ちればゴミとして掃き集められてゴミ箱行きということになります。それが多少大きな欠片であってもゴミだとわたしたちは認識するわけです。そのようなゴミの欠片をいただくことが、食卓の上の食事と同じだと女は語っています。つまり、通常の食事と落ちた欠片とは同じだと言っているわけです。彼女は、正式に食卓に付かせるようにと、要求しているわけではありません。欠片であろうとも正式に食卓についている人と同じものを、小犬は食べるのだと女は言っているのです。この女の言葉を聞いて、イエスは「あなたの信仰は大きい」と言いました。あなたは謙虚だと言ったわけではありません。イエスが「大きい」という「あなたの信仰」とは一体どのような信仰なのでしょうか。

通常、カナンの女は、欠片でも良いからくださいと言っていると理解されます。それはまた彼女の謙虚さだとも考えられています。そのように考える立場からは、謙虚さが現れている「あなたの信仰」が「大きい」、「立派だ」と言われていると考えがちです。自らを低くすることができる人は大きな人だということでしょうか。そのように考えることで、わたしたちは謙虚さが立派なことだと判断することになります。しかし、この謙虚さの比較は、小さくなることが大きなことだという反転した比較になります。自分の立場が大きく人を凌駕するというところに生きている人は小さな人で、自らを小さな取るに足りない人間だと認める人は大きな人だということですね。それでは結局、量の問題になってしまいます。本来の謙虚さとは、神の前における謙虚さです。自らが神の前にはいかに小さな存在であるかを知ることです。そのような小さな存在に対して、ご自身の大いなる恵みを注いでくださる神に対する信頼と感謝、これが聖書が言う謙虚さです。そう考えてみれば、カナンの女の信仰とは、信仰の量の問題なのでしょうか。むしろ、わたしたちが信仰において見ている世界がいかなる世界であるかをイエスは問うておられるのではないでしょうか。その人が見ている世界が大きい世界なのか、小さい世界なのかを問うておられるのではないでしょうか。

この出来事の前に記されている昔の人の言い伝えについての議論は、とても小さな世界しか見ていない人々のことを語っています。親の面倒を見ることで減ってしまう自分の持ち分を如何にしたら減らさずに済むかという話です。親に向かって「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言えば何もしなくて良いという身勝手な律法解釈を作った人へのイエスの批判です。イザヤが語る「口先だけで」神に従っているように見せている人への批判です。神さまの世界は大きな世界なのに、この人たちの見ている世界はとても小さい。自分の持っているものを減らさないようにするというちまちました世界です。

わたしが持っている物は神さまが与えてくださったものです。わたしのものではないのですから、本来はわたしの所有ではありません。それを自分の所有と考えている時点で、わたしたちが見ている世界はとても狭い世界になっているのです。しかし、カナンの女の見ている世界は神さまが支配する大きな世界です。異邦人であろうともユダヤ人と同じ神が支配しておられる世界に生きていると彼女は信じている。その中で、彼女に与えられるものがいかに小さくても、与えてくださるお方の心はその中に同じく満ちていると信じている。彼女が信仰において見ている世界はとても大きな世界なのです。反対に、昔の人の言い伝えの世界はとても小さな世界です。彼らが考えることができる範囲。彼らが自分の都合で動かすことができる範囲。そのような狭い世界を見ているとすれば、その信仰は神から与えられた信仰ではないのです。自分たちでどうにでも変えられる世界であり、信仰なのです。一方で、カナンの女が信じている世界と信仰とは、彼女が変えることができるものではありません。自分に与えられているものを感謝して受け取っている世界です。

彼女が見ている世界では、立場が違っていても、神さまから与えられているものの中に同じ恵みがあるのです。それは、自分が持っているものの量の比較などではありません。神の意志はものの量で計ることができないということです。量が少ないから、恵みが少ないとか、量が少ないから、神さまは少ししかわたしのことを見ておられないということではないのです。あなたに与えられているものは、神さまの意志が満たされているものなのです。その量によって神の恵みや顧みの大小が現れるわけではないのです。この世のすべてのうちに、神の意志は満たされています。満たされているのに、わたしたち人間は自分が確認できるものによって比較してしまう。そこにあるのは神からの信仰ではなく、自分が信じていると思い込んでいる信仰、ルターが言う夢や幻想です。だから、そのような人たちはとても狭い世界に生きているのです。

では、カナンの女の信仰は、どこから来たのでしょう。ユダヤ人ではないのに、イエスが信じている父なる神をどこで信じるようになったのでしょう。彼女のもとに聞こえてきたイエスのうわさでしょうか。もちろん、そのうわさで、イエスが近くにきたことを聞いて、イエスの許に来たのです。しかし、彼女が信仰を起こされたのは、イエスの言葉によってです。「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という言葉を聞いて、彼女は大きな世界を見る信仰を起こされたのです。どうしてでしょうか。「イスラエルの家」というのは地域や人種に限定された非常に小さな世界です。一方で「失われた羊」というのは、本来「イスラエルの家」に属していたけれども、失われて、散り散りにされている人たちが広がっているという広い世界です。カナンの女は、このイエスの言葉によって本来のイスラエルの家に属する人たちが広がっている世界を知ったのです。失われた羊がイスラエルという地域に限定されない神の羊を表しているからです。その世界はイスラエルの家にいる小犬の世界です。小犬はイスラエルの家にもローマの家にもいることができます。小犬に国境はないからです。彼女は、イエスの言葉によって、広い世界、信仰において見える世界を知ったのです。

彼女が見ている世界にあっては、ものの量によって違いがあるのではなく、受け取るすべてのものに神の恵みが満たされている。それゆえに、欠片にもすべてがあると、彼女は答えているわけです。その彼女が見ている世界を認めたイエスの言葉が「あなたの信仰は大きい」という言葉なのです。そのような世界に生きることになったカナンの女は、与えられた欠片を神の恵みに満ちたものとして受け取った。それゆえに、彼女の娘は癒された。大きな世界に入っている彼女と娘とが癒されたのです。

神さまの大きな世界、信仰の世界に、わたしたちも入れられている。あなたもあの人も入れられている。イエスの言葉を素直に聞く人はすべて入れられている。あなたが神によって起こされた信仰によって信じている世界は、あなたを神の恵みで満たす世界。いかなる人にも開かれている世界。欠片にもすべてがある世界。使徒パウロが聴いたキリストの言葉の世界。「わたしの恵みはあなたに十分である」という世界。口先だけのこの世を越えて、真実の心で生きる世界。その世界を開いてくださるイエスの言葉が、パンと葡萄酒の形で与えられる。聖餐において、すべての人が同じ恵み、同じ力に与る。イエスの言葉が作り出す新しい、広い世界に入れられている恵みを感謝して、聖餐に与り、神の大きな世界を生きていきましょう。

祈ります。

 

 

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