「わたしを啓く言葉」

2023年8月27日(聖霊降臨後第13主日)
マタイによる福音書 16章13節〜20節

わたしたち人間は、他の人と同じであることで安心するものです。他の人と違うことはできるだけ知られないようにします。みんなが同じであるはずはないのに、わたしたちは同じを求めます。信仰告白という出来事も、先に信じている人たちと同じことを信じていると告白することだと考える人もいるでしょう。確かに、わたしたちの信仰はそれぞれに違うわけではなく、全能の神と御子イエス・キリストと聖霊とを、ひとりの神として信じているわけですから、他の人と同じお方を信じているのが信仰だと言えます。

その際に、わたしたちは、信仰というものを自分が信じるものだと考えています。確かに、信じているのはわたしです。ところが、わたしが信じるようになったのは、他の人が信じているものを確認して、これだけの数の人が信じているのだから、大丈夫だと考えた結果でしょうか。違いますね。今日の日課では、歴史上で最初にキリスト告白をしたペトロが語られているのですが、彼には先に告白している人はいませんでした。彼は、イエスから他の人は何と言っているかと聞かれて、答えていますが、その人たちとは違う告白、「あなたは生ける神の子、キリスト」という告白をしています。ペトロには、他の人と同じだから安心だという意識はなかったのです。ただ、イエス・キリストを信じている自分を告白した。それだけだったのです。

イエスは、ペトロの告白に対して、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とおっしゃっています。つまり、ペトロの告白はペトロから出てきたものではなく、イエスの天の父である神から出てきたのだと言うのです。ここで「現した」と訳されている言葉は「啓示した」という言葉です。啓示とは、覆われているものの覆いが取り除かれることなのですが、その覆いを取り除いたのは天の父であると言うのです。しかも、大勢に対して覆いを取り除いたのではなく、「あなたに啓示した」、「あなたに覆いを取り除いた」とおっしゃっています。ペトロ個人に啓示したということです。確かに、啓示は個人に啓かれるものです。集団に啓かれるものではありません。啓かれた一人ひとりが啓かれたものを伝え合って、確かにその通りだ「アーメン」と一つの言葉を語る。その結果、わたしたちが毎週告白している信仰告白が形作られたのです。信仰告白は個人であるわたしに啓示された信仰の世界を、同じく啓示された人たちと共に生きることなのです。そのような意味では、信仰告白は「わたしの奥底にあるわたし自身が受け取ったもの」を共に告白しているのです。

わたしの奥底に秘められているのは、わたしが意識してはいないけれども、神さまが造ってくださったわたし自身です。みなさんも自分で自分に話すことがあるでしょう。わたしたちは意識しないで自分自身と対話しているのです。それは罪に覆われて、見えなくなっているわたし自身です。そのわたし自身とわたしとが内なる世界で対話して、神さまに造られたわたしを見出すとき、神さまの真実の世界が啓かれます。神の言葉を聴いたわたしが、神に造られたわたしを認識するようになる。そのとき、わたしは自分自身を啓かれているとも言えるのです。

みなさんは、自分を知っていると思いますか。自分の真実を知っていると思いますか。わたしとは何者なのだろうかと思うことがありませんか。わたしたち人間は、自分自身を見失っているのです。原罪によって、神が造ってくださったわたしを見失っているのがわたしなのです。神がわたしを支配しておられること、わたしを守ってくださっていることを見失っている。それで、わたしたちは自分で自分を守らなければと考えてしまいます。そのような考えこそが、原罪の結果なのです。湖の上で風を見て怖くなり、不安に陥ったペトロの姿の中にも同じ罪の働きがあったことを見ました。そこから抜け出すためには、イエスのみを見つめて、イエスの言葉のみに耳を傾ける必要があることを確認しました。そして、今日ペトロはそのときとは違って、イエスの言葉、神の言葉に素直に従っているのです。

確かに、この世で生きている限り、わたしたちは安全だとは思えません。攻撃されることもあります。侵略されることもあります。攻撃は最大の防御という言葉の通り、軍備増強に取り組んでいるどこかの国のように攻撃される前に攻撃しなければと考えます。神を信じて、祈っていても、神は守ってくれるのかと思ってしまいます。不安を取り除くために、仲間を作って、裏切らないように申し合わせていれば大丈夫だと思うこともあります。しかし、利害が変われば、裏切る人も出てきます。契約書を結ぶということなども裏切らないということを確約し合うことでもあるでしょう。結局、わたしたち人間はお互いに信じてはいないのです。このような人間同士が、同じことを信じていると言っても、本当かなあと思うでしょう。誰も、他人の心のうちを覗くことはできないのですから、疑えば切りがありません。だとすれば、他人と同じことを求めるよりも、自分自身がどこに立てられているのかをしっかり持っていることが大事なのです。それが信仰告白です。

信仰告白は個人としての告白だと言いましたが、ペトロの告白が天の父の啓示の出来事だとおっしゃるイエスは、ペトロのことを「バルヨナ、シモン」と言っています。「バルヨナ」という呼び名は、旧約聖書にも新約聖書にも、ここ以外には他の個所には出てきません。「バルヨナ」とは、「ヨナの息子」という意味です。預言者ヨナの息子という意味ですね。預言者ヨナは、旧約聖書のヨナ書に出てくる人です。ヨナは、ニネベに宣教に行けとおっしゃる神さまに逆らって、反対方向に向かって行った人です。この人については、イエスが12章38節以降で「ヨナのしるし」という言葉で語っています。それは、ヨナが三日三晩魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩地の中にいるということだと言われています。地の中にいるということは、死んで葬られるということですね。ご自身の十字架の死を「ヨナのしるし」とおっしゃっているのです。そして、今日の個所の少し前、16章4節でもまた「ヨナのしるし」が語られていますが、そこでは「よこしまで神に背いた時代の者たち」には、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とイエスはおっしゃっています。つまり、十字架だけが神が与える「しるし」だと言うのです。そして、シモンのことを「バルヨナ」、「ヨナの息子」と呼んでいます。

だとすると、シモン・ペトロも他の人たちと同じように、神に背いている時代の人なのですが、ヨナのように神によって生きる方向を変えられて、神の裁きを宣べ伝えることになるということです。それが、「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」という言葉が語っていることです。ペトロはヨナのように、神のご意志を伝えるだけ。ご意志を実行するのは、天の父なる神だけです。この言葉が語っているのは、裁きや罪の赦しのことではないのです。縛ることや解くことが語っているのは、神による禁止と許可が与えられているもののことです。ペトロは神の言葉が語るままに、禁止と許可を語るだけです。その言葉を聞いた人が悔い改めるとすれば、ペトロと同じように天の父が啓示した人だということです。ニネベの人たちもまた、ヨナが語った神の言葉を聞いて、それぞれに悔い改めの心を神によって起こされて、断食し、粗布をまとったのです。この天の父こそが「岩」なのです。

ペトロという名は、「小石」という意味です。「岩」はペトラと言います。つまり、大岩である神の上に生きている存在が小石であるペトロだと言えます。その小石に告白を行わせるのは「大岩」である神だということでしょう。この箇所は、ペトロを教会の長とした箇所として解釈されるところですが、大岩ペトラが出てくる箇所を読んでみれば、大岩が神であることは明らかです。山上の説教の最後にも出てきますね。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」という言葉です。この岩ペトラは神を指していますので、今日の個所でも同じく神を指しています。わたしたちが信仰を告白することができるのは、この大岩である神が行わせておられるからです。しかも、その告白はひとりの人間としての小石それぞれが行う告白なのです。

16章4節には「よこしまで神に背いた時代の者たち」という言葉がありますが、「時代」という言葉は「世代」という意味でもあります。世代や時代には個人はありません。時代の潮流に流される人たちのことです。そのような人たちに示されるのは「ヨナのしるし」だけだとイエスはおっしゃっています。「ヨナのしるし」から何を聞き取るかは、個々人に委ねられているということです。先ほど言いましたように、「神によって向きを変えられて、裁きを宣べ伝える」ことになるのがヨナのしるしが示していることです。そのために、三日三晩地の中にイエスがおられることになる十字架が起こる。この十字架に支えられて、わたしたち一人ひとりは信仰を起こされ、告白することになる。時代に流されることなく、他者に迎合することなく、一人ひとりが神からの啓示を受けて、自分自身を啓かれる。それが信仰告白なのです。

信仰を告白するということは、一人ひとりが神との対話に入ることです。神に造られたわたし自身が神と対話すること。それが真実のわたしを啓かれることです。たった一人のわたしが十字架によって救われることです。あなたは、ヨナのしるしを与えられている。十字架を与えられている。十字架によって向きを変えられ、神の言葉を宣べ伝える者とされている。揺れ動く時代の中で、揺さぶられることなく自分自身を生きていくことができる。それがあなたに与えられている信仰なのです。神の言葉は、あなたのうちに信仰を起こし、あなた自身を啓き、あなたの歩みを守り導いてくださる力、十字架の力なのです。この信仰へと入れられていることを感謝して、十字架を仰ぎつつ、歩んで行きましょう。

祈ります。

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