「知らずに意志する」

2023年9月3日(聖霊降臨後第14主日)
マタイによる福音書16章21節-28節

人間という存在は浮き沈みが激しいものです。調子の良いときと悪いときとが交互にやってきます。調子が良いと思い上がり、躓いてしまうことも起こる。躓いて、落ち込んで沈んでいたのに、いつの間にか調子が戻る。素直に神の言に従っていると思っていたら、途端に人間的になってしまった今日のペトロも同じですね。先週は、歴史上初めてキリスト告白をした信仰者だったペトロが、今日はイエスに叱られる。しかも、「サタン」とまで言われる。これがわたしたち人間の罪の働きなのです。原罪に陥っているということは、この世の価値、人間的な考え方に陥っていることです。そこから一瞬抜け出すときがあるのですが、それは一瞬のことで、すぐに人間に戻ってしまう。

ペトロは先週、天の父の啓示を受けたはずなのに、それは長続きしません。イエスの受難予告を聞いて、「主よ、あなたにそんなことは決して生じないでしょう」と言うのです。まるで、自分が預言者か何かのようにイエスに言います。新共同訳は「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と訳していますが、原文では「神があなたに憐れみをくださるように。主よ、あなたにそんなことは決して生じないでしょう」となっています。イエスに対して、「神があなたに憐れみをくださるように」と言うのです。イエスに対して神の憐れみを語る存在であるかのように、ペトロはイエスに語っています。それゆえにイエスはペトロを「サタン」とまで言うのです。

わたしたちも同じように、誉められると思い上がるものですね。誉められて、思い上がらない人などいないのです。誉められて、「いえいえ、わたしなど」と謙遜しているような言葉を語りながら、「まんざらでもないな」と思っています。そのうち「まんざらでもない」どころか、「結構いけてる」と思い、「わたしはすごい」と思い上がっていく。これが罪深い人間の思考です。ペトロもそんな風に思い上がって、イエスをいさめ始めた。原文では「イエスを叱り始めた」となっています。主であるイエスをペトロは叱ったのです。イエスを超えていると思ったのでしょうか。思い上がりは、これほどに自分を見失わせるのです。

このようなペトロと弟子たちに対して、イエスはこうおっしゃいます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。「自分を捨てなさい」とイエスはおっしゃっていますが、この言葉は「自分を知らないと言う」という言葉です。自分を捨てるというと、自分の命を犠牲にすることや自分を否定することのように思いますが、「自分を知らないと言う」ことはそうではありません。犠牲にすることや否定することも、自分を知っている状態です。自分に意識が集中している状態です。自分に意識が集中しないこと、自分を知らない状態が、「自分を捨てる」と訳されている言葉なのです。つまり、自分が自分を意識しないのですが、「意識しないようにしよう」とすると意識しているわけです。まったく意識しないことは、わたしたちにはできないのです。ところが、自分を意識しないで動くことがあります。思わず動くとき。思わず誰かを助けるとき。考えることなく、体が動いてしまうとき。そのようなときには、わたしたちは自分を意識していません。「知らずに意志する」ということがあるのです。その結果、何か感謝されることがあると、自分を意識するのです。反対に、「知らずに意志する」ときのわたしの意志は、わたしが意志しているのですが、わたしの意志を神が起こして動かしてくださっているのです。そのとき、わたしたちは自分を知らないで捨てていると言えるでしょう。

先週の個所で、ペトロが思わず告白したキリスト告白も、ペトロは意識していないままに告白しています。それゆえに「天の父があなたに啓示した」とイエスはおっしゃった。つまり、意識しないままに告白した告白が、真実のキリスト告白だった。だとすれば、ここでイエスが言う「自分を捨てる」ということも、自分を捨てようと意識することなく、神に動かされることだと言えます。そのような状態に置かれるのは、どのような人かと言えば、神によってイエスに従う意志を起こされた人だと言えます。イエスに従うという意志は、わたしが意志するのですが、わたしの意志ではなく、神の意志に素直に従って意志しているわたしなのです。このような状態が信仰の状態だと言えます。ルターが言う「注入された信仰」の状態です。

神さまが、あなたに信仰を注ぎ入れたとき、あなたが素直に受け入れるならば、この状態に入れられているのです。しかし、わたしが信じていると意識したとき、注入された信仰を脇に置いてしまいます。ですから、わたしたちは信じていると意識しているときには、信じていない。信じていると意識していないとき、信じている。これは、イエスがご自身のご受難をそのままに受け入れておられる状態と同じです。

イエスはご受難を大変なことのように語ってはいません。むしろ、当然起こるべきこととして語っています。新共同訳では「することになっている」と訳されている言葉ですが、ここには「神の必然」を表す言葉が使われています。つまり、「することになっている」ということは「そうなることが神の必然である」という意味なのです。イエスは、ご自身の受難の出来事、十字架の死と復活が神の必然であると語っています。それは、当然そのようになるのだとおっしゃっているわけで、それ以外にありようがないのだとおっしゃっているのです。ということは、イエスは神の必然をそのままに受け入れて語っているわけです。しかし、受け入れることができないのが人間であるペトロでした。自分が信仰告白したキリストであるイエスがそのような受難を受けなければならないとは受け入れることができない。それゆえに、イエスを神が憐れんでくださるようにと言う。さらには、「あなたにそんなことは決して生じないでしょう」とまで言うのです。これこそ、ペトロの思い上がりだと言われても仕方がないでしょう。ペトロはイエスの受難を避けることが良いことだと思っている。それが人間の事柄を考えているペトロなのです。人間の価値観から抜け出すことができず、神の事柄を賢く考えることができないペトロなのです。

神の必然は避けようがない、にも関わらず、ペトロは神の憐れみがあるようにとイエスに言う。それは神の必然を拒否し、否定する言葉です。イエスはペトロを「サタン」と呼ぶだけではなく、「わたしを躓かせる者」とも言っています。新共同訳では「邪魔をする者」となっていますが、ペトロはイエスの躓きの石になってしまっているということです。躓きの石ということは、イエスを神から引き離そうとする存在だということです。だから「サタン」と言われる。

ペトロにしてみれば、イエスのことを思って言った言葉だったでしょう。しかし、「サタン」に支配されている存在となっていると言われる。イエスが見ておられる人間の根源的罪、原罪がいかにわたしたちの精神を蝕んでいるかが分かるイエスの言葉です。「サタン、わたしの後ろに引き下がれ」。人間の根源的な罪をご存知のイエスは、ペトロを叱る。ペトロ自身が人間的に賢く考えていると意識している状態が罪に支配されている状態であると叱る。それによって、ペトロはようやく自らの罪深さを知らされる。イエスが見ておられるのは、人間の奥に潜んでいる罪なのです。

イエスは弟子たちにこうも言っています。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」と。「それを得る」という言葉は「それを発見する」という言葉です。発見するということは、そこにあるのに見えなくなっていたものが見えて、発見するということですね。自分の命とは自分の魂のことですが、自分の魂を見失っている人が、それを発見する。ここでイエスがおっしゃっていることは、「自分の命、自分の命」と考えて、自分で守らなければと意識している人は結局命を失ってしまうということです。自分の命を捨てる。自分の命を知らないというところに生きている人は、自分で守らなければとは思わない。そして、与えられている命を神の意志に従って用いている。それで、最終的に、神の許に自分の命を発見する。自分自身を発見するということです。その発見は、イエスと同じように、自分の負うべきものを負ったときに発見するものなのです。

自分が負うべきものを負わず、責任を回避して、自分を守ろうとする人は、結局自分を失ってしまう。負うべきものを与えたのは神ですから、神に与えられたものを受け入れて、負うべきものとして引き受ける人は、自分を知らないと言って、負うということです。そのとき、神が負わせたものがその人を包んでいますので、神ご自身がその人を守ってくださる。そして、意識していなかった自分自身の魂が救われているのです。意識していないので、救われているということも意識していないでしょう。わたしたちは、自分を知らないと言うところで、神に起こされた意志に従って生きるときに、神のものとして生きていると言えます。そのような状態に自分から入るのは、難しいことです。しかし、人間である自分を離れて、できないと思う自分を離れて、神が可能としてくださると信頼しているならば、すべては可能となっていくのです。

わたしたちは自分で自分を操ることができません。できると思っている限り、神のものではないと神に逆らっているわたしがいるのです。神があなたを動かしてくださるならば、あなたは可能とされる。それだけです。そのために、イエスは聖餐を設定してくださいました。自分を捨て、神に生きたお方が、あなたのうちに入ってくださる聖餐を通して、あなたはイエスがおっしゃる神の必然を生きることができるようにされる。イエスが設定してくださった聖餐に与り、イエスと共に神の必然を生きるものでありますように。知らずに意志する信仰者として生きていけますように。祈ります。

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