「イエスがただなかに」

2023年9月10日(聖霊降臨後第15主日)
マタイによる福音書18章15節-20節

教会は「主の復活の証人」と言われます。「証人」は一人では「証人」にはなりません。少なくとも二人は必要です。多ければ多いほど、その証言は確かだと言われます。多いほど確かな証言だとすれば、教会は人が多ければ確かな証言を持っているということでしょうか。しかし、たとえ二人で礼拝を守っているとしても、そこには教会があると今日イエスはおっしゃっています。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と。「わたしの名によって集まるところ」とは礼拝の最初に語られる言葉ですね。「父と子と聖霊の御名によって」と礼拝は始まります。そのただなかにイエスがおられる。つまり、教会が教会であるということは、イエスがただなかにおられることだとおっしゃっているのです。

この教会が地上において縛ることは、天上において縛られているであろうとイエスはおっしゃっています。また、地上において解くことも、天上において解かれているであろうともおっしゃっています。この言葉は、ペトロの信仰告白の際に、ペトロに対して語られた言葉と同じです。そこでは「あなた」という二人称単数でしたが、ここでは「あなたがた」という二人称複数です。それで、ペトロが単数でも縛り解く権威を与えられていると考えられるようになりました。ペトロのときに単数で語られたことは、大岩であるペトラの上に立てられている小石ペトロである存在を象徴していました。その大岩ペトラの上に、イエスはご自分の教会を建てるとおっしゃっていました。つまり、大岩である神の上に教会は建てられているのです。人間の上ではありません。大岩はペトラで、ペトロという名は「小石」のことですからね。そうであれば、今日複数形で語られている縛り解く権威というものは、教会に与えられているものだと理解すべきでしょう。

さらに、縛り解く権威と言いましたが、この言葉が示しているのは、人間が誰かを縛ったり、誰かを解放したりするということではありません。神の言葉が縛る。神の言葉が解く。そのように考えるべきでしょう。わたしたち人間が教会の規則を決めて、縛り解くということではないのです。教会の規則というのは、地上的に運営される組織としての教会を維持するためのものです。ところが、ここでイエスがおっしゃっていることは、天上でも縛られるであろうという未来と解かれるであろうという未来です。ということは、終末において縛られているであろうし、終末において解かれているであろうということです。それは、ある人が地獄に定められているとか、天国に定められているということではありません。神が語り給うた言葉に従って縛ることは、規則が生まれてくる大元にあるものです。一方で、神が語っておられないことは、解かれている。ルターが宗教改革の基本方針としたのは、このようなことでした。聖書が語っていることだけを教会が守るべきこととするということ。また、聖書が語っていないことについては、どちらでも良いこととする。この方針では、聖書が語っている言葉が縛ることであり、語っていないのだから解くことであるということが明確になっています。このルターの立場から考えてみれば、縛ることと解くこととは、神の言葉に従って実現することだと言えます。

神の言葉に従って実現するとは言っても、神の言葉が語っていないことについては、どちらでも良いのですから困ることもあるでしょう。守っても、守らなくても良いということですから、教会の規則や教理というものが効力を発揮しないことになります。地上の組織としての秩序を守ろうとすると、規則や教理は必要です。しかし、守っても守らなくても良いということになれば、規則では縛ることができません。教理で制限することもできません。縛るのは、神の言葉だけだということです。ルターの当時、教会には七つの秘蹟(サクラメント)というものがありました。ルターはこのうち「洗礼」と「聖餐」だけをサクラメント秘蹟としました。その二つは聖書にはっきりと記されていて、神とイエスとが設定したことが明らかだったからです。しかし、他の五つの秘蹟として守られていたものについては、聖書に明確に述べられていないため、秘蹟ではないし、守っても守らなくても良いものだとしたのです。ただし、神の言葉が明確に禁じていない事柄について、どう考えるかが問題となります。

禁じられていないので、守っても守らなくても良いのですが、直接的な言葉として禁止が語られていなくても、その本質的なところでどうなのかが問われなければならないでしょう。これはイエスが姦淫などについて語られた言葉に明らかです。淫らな目で女性を見たならば、心の中で姦淫したのだとイエスはおっしゃっています。見ることは禁止されていない。しかし、見ることを行わせている心が、姦淫している心と同じであるならば、姦淫だとイエスはおっしゃっているのです。そう考えてみれば、わたしたちが規則を守っていると言っていることでも、心の中では守っていないということがあるわけです。そこまで考えて、わたしたちは神の言葉を考えているでしょうか。

とりあえず、人に見られているところではお行儀良くしていれば良いということで隠していることがないか。人を批判したり、悪口を言ったことがないという人はいないでしょう。誰でも、陰では、人の見ていないところでは、心の中では、悪態をついているということがあります。公に口に出していないだけです。そこまで、規則で規制することはできません。誰にも見えないのですから、「心の中で思ってもいけません」と規則に書いても、「思っていない」と言われればそれで終わりです。だとすれば、一人ひとりの人間が神と自分との間で自分を見つめ直すことしかできないのです。この見つめ直す人は良心があると言われます。

聖書で「良心」と訳されている言葉は「意識」という言葉です。神の言葉を聞いて、意識を持って、自分を吟味することとして「良心」というものが想定されました。自分自身の中で、自分と自分が語り合っている。これは良いことなのか、悪いことなのかと語り合っている。そのような自己のうちにおける対話の中で、自分自身と一致して行動するか否かで、真実か嘘かが分かれると、カール・ヤスパースという哲学者は言いました。ハンナ・アーレントという思想家は、「責任と判断」という著書の中でこのようなことを言っています。自分自身と一致しないことを行うことができない人は、強いられている社会の要請に従わないと。彼女は、ナチス・ドイツに従うか従わないかを判断した人たちのことを研究して、ナチスに従わなかった人たちは、自分に対して嘘をつけなかった人だと言いました。反対に、自分に嘘をついて、ナチスに従った人たちもいたわけです。嘘をつけない人は、自分自身と自分とが一致していないことを実行することに居心地の悪さを感じて、実行できなかったのだと、アーレントは言っています。今日の日課の中で、二人または三人の証人という言葉が出てきますが、自分のうちにある二人が一致することで真実を守ることができるということです。それがいわゆる「良心」と言われる「意識」のことです。

そして、二人または三人のことを聞かないとか、教会のことを聞かないと言われているのは、神の言葉と一致しない状態を表しています。一致しないということは、犯された罪を認めないということです。神の言葉に従って、根源的な罪があることを認めないということです。そのような人は「意識」を持っていないので、自分のうちに嘘があっても気にしない。そのような人を「異邦人や徴税人」と見なしなさいと言われていますが、それはゼロからやり直すことを意味しています。それまでは教会の中に生きていたのに、神の言葉を聞かなくなった人のことを「異邦人や徴税人」と言っています。そうなった場合には、もう一度ゼロから御言葉を語らなければならないということです。その言葉が縛り解く言葉なのです。

この神の言葉が語られているところ、それが「イエスの名へと集められてしまっている」ところです。そこに、二人または三人がいれば、そのただなかにイエスが存在しているとおっしゃっています。この場合、神の言葉を語る人と聞く人の二人がいれば教会だということですね。そのただなかにイエスが存在している。縛り解く神の言葉を語る人と聞く人がいるところにイエスがただなかにおられて、言葉を語らせ、聞かせることを行っている。それが教会であるとイエスはおっしゃっているのです。イエスの最後の言葉では、この基本的人数から再出発することが語られていると言えます。

神の言葉を語り、聞く人がイエスの名に包まれて二人でいるならば、教会である。とすれば、教会とは語り聞くことが起こる場だと言えます。さらに言えば、その中で語るのは神であり、イエスであり、聞かせるのは聖霊であるとも言えるでしょう。地上における教会において、将来の天上において神に見える神の御前という場がすでに存在しているとイエスはおっしゃっているのです。その教会において何が起こるのかと言えば、悔い改めであり、生き方の方向転換です。

そうは言っても、わたしたちがこの世で生きていく上で、真実を真実として生きるとすれば、迫害に遭うこともあるでしょう。人間関係が上手くいかなくなるということもあるでしょう。ヤスパースもアーレントもそう言っています。その場合、自分に嘘をついて、真実ではないけれど合わせておこうとするならば教会ではなくなってしまうということです。教会は、ただなかにイエスがおられるのですから、イエスの前で嘘をつくことはできないからです。この場合、自分に嘘をつく自分を「知らない」と言わなければならないのです。それは自分ではないと言わなければならないのです。そうして、本当の自分自身の魂は、神の言葉と共に生きていると確認するのです。

わたしたちはただなかにおられるイエスと共に生きるようにと教会に招かれています。真実に生きるようにと招かれています。八方美人は教会には相応しくないのです。教会は一方美人です。神の言葉のみに従うのが教会です。この教会のために、イエスはご自身を与えてくださった。十字架の死と復活を通して与えてくださった。イエス・キリストは嘘偽りのない生き方の末に十字架に架けられてしまいましたが、神の力によって生きておられる。このお方が、あなたがたのただなかに生きてくださっています。神の言葉を分かち合う二人と共に、イエスは生きてくださっています。あなたもその一人。イエスが友と呼んでくださった一人。真実のあなた自身をイエスと共に生きていきましょう。

祈ります。

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