「終わりを今生きる」

2023年9月17日(聖霊降臨後第16主日)
マタイによる福音書18章21節-35節

わたしたち人間は今を生きています。今目の前にある事柄に対処して生きています。そこから未来に向かって生きるのだと思っています。これまで積み上げてきた過去があって、現在がある。この現在から未来に向かって、また積み上げていくのだと思っています。ところが、聖書は反対のことを語っています。今、終わりを生きる、終わりから生きるのだと今日の聖書は語っています。

今日、イエスが語るたとえは「天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした」と始まっています。この原文では、ある王は「彼の奴隷たちと共に、ロゴスを清算する意志を持った人」と言われています。「ロゴス」というギリシア語は「言葉」と訳されることが多いのですが、他にも意味があります。「事柄」、「出来事」、「会計勘定」などです。それでここで言われているロゴスというのは「会計勘定」だと言えるでしょうね、お金の貸し借りの話ですから。しかし、ロゴスですので、単なる会計勘定ではなく、言葉として「貸しました」、「借りました」、「返します」という約束をしているということです。そのロゴスである言葉を確認して、「返す」と言ったのだから「返してね」という清算が行われるということです。それが、最後の審判の際にその人が語った言葉ロゴスが清算されるという意味だと言えます。

さて、イエスがこのたとえを語られた背景には、ペトロが何回まで人を赦さなければならないかとイエスに聞いたことが前提になっています。それに対して、イエスは「7の70倍赦しなさい」とおっしゃっています。つまり、数えて覚えておくことができないほどに赦しなさいという意味です。そうであれば、限界なく赦すということになるわけですが、それでこのたとえが語られたと言われています。

たとえの内容は、返済などできないほど高額の借金を憐れんで赦してもらった奴隷が、同じ奴隷仲間に出会って、自分が貸していたお金を返せと迫り、返せないと言われて、牢屋に入れてしまったという話です。そのことを聞いた先の王が、再び最初の奴隷を呼び出して言い渡します。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」と。ここで「やるべきではなかったか」という言葉は、神の必然を表す言葉が使われていますので、「王から憐れんでもらった人間は、同じように憐れむことが必然である」ということです。そうでなければ「憐れんでもらった」ことを自分で帳消しにすることになるということです。そして、イエスは最後にこうおっしゃっています。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」と。「心から兄弟を赦す」ということが「同じ負債を負っている存在として憐れむ」ことだというわけです。

イエスはたとえにおいて、当然のことのように語っておられますが、まず考えられないような巨額の負債の免除が語られていますので、あり得ないと思えることです。それをイエスは必然的であり得ることとして語っています。この巨額の負債免除というのが、最後の審判において示される神の憐れみだということですね。そうであれば、天の国とは限りない赦しの世界だということになります。反対に、わたしたち人間は、限りない負債を負って生かされているというわけです。さらに、最後の審判のときに行われるであろう限りない赦しの世界を信じているならば、今現在において赦しを生きるであろうとイエスはおっしゃっているわけです。それが「終わりを今生きる」ということです。わたしたちが考えている過去、現在、未来という時間軸で流れていくように思っている世界ではなく、未来から現在を生きるということです。このように未来から生きる人は、現在を天の国として生きているとイエスはおっしゃっているのです。

しかし、わたしたちは遠い未来を考えて生きるということはありません。終末の未来など決まっていないのだから、確かではないと考えるからです。近い未来ならば考えます。遠い未来に備えて生きるのではなく、近い未来を上手く生きていくために、現在をいかに上手く乗り切るかを考えるものです。では、聖書が語る遠い未来は本当に確かではないのでしょうか。イエスが語るたとえは確かではないのでしょうか。単なる脅しなのでしょうか。神を信じない人にとっては単なる脅しでしょう。宗教は、そのようにして脅して金を巻き上げると考える人もいます。果たしてそうなのでしょうか。

確かに、遠い未来は決まっていないと考えることはできます。わたしに今日起こったことに上手く対処すれば、近い未来である明日はもっと上手く行くと考える。こうして、わたしたちは自分で世界を制御していけると思うものです。自分でできなければ、誰かに助けてもらって制御しようと考えます。こうして、わたしたち人間はこれまでも上手くやって来た。これからも上手くやっていくことができると考えます。果たして、それで良いのか。どうして、聖書は反対のことを語っているのでしょうか。どうして、イエスはこのようなたとえを語ったのでしょうか。ペトロが何回まで赦すべきかと尋ねたからです。ペトロは赦せなかった。それで、イエスに何回までだと言われれば、それまでは我慢しようと考えたのでしょう。その限界は「7回まで」でした。ところが、イエスは限界を超えて、その70倍までと言うのです。この言葉を聞いて、「そうか、490回まで赦せば、それ以降は赦さなくても良いのだな」と考える人はいないでしょう。「490回なんて、赦せない」。490回などいちいち回数を数えて、ノートに記録しておくことなどできないと思うでしょう。イエスは490回まで赦せとおっしゃったわけではないのです。そこまで赦したならば、もはや数えないだろうし、赦しが普通のことになるとイエスはおっしゃっているのではないでしょうか。赦すことが普通になる。それが、イエスがペトロに語った真意でしょう。赦しが普通になるということは、もはや「赦した」ことを数えなくなることです。赦したという思いさえも持たなくなることです。そのような生き方が、終わりを今生きる生き方だとイエスは教えてくださったのです。

わたしたちが赦しを普通のこととして生きるということが、終わりを生きることであるとすれば、終わりに神から負債の免除をいただくことが普通であるということでしょうか。いえ、普通ではない負債の免除を受けた存在として、今を生きなさいということです。わたしたちのいのちは、普通では返済不能の負債だということです。神さまは、わたしたちをたくさんの恵みを持って生かしてくださっていますが、恵みをあなたに貸しているとは言いません。しかし、神さまの恵みは本来わたしが当然受けるべき報酬ではないのですから、この世の事柄で言えば、負債なのです。その負債を支払うようにと神さまがおっしゃったならば、誰も支払うことができないような負債になってしまう。それで、終わりの日に負債を免除していただくことがなければ、わたしたちは牢獄に閉じ込められるだろうということです。そうならないためには、わたしたちが他者に負わせていると思っている負債を赦すことで、終わりの日を今生きることができるということです。なぜなら、わたしが他者に負わせた負債など神さまからお借りしている負債とは比べものにならない小さなものだからです。いえ、わたしが自分のものだと思っているものはすべて神のものなのです。自分が他人に「あなたに貸した」と主張しているものは本来は神のものなのです。この負債をどこまでも追求する者は、結局自分が神さまに負っている負債を追求されるということです。

わたしたちは、神さまに負債を負っているとは思っていません。神さまに造られたと教えられているキリスト者であろうとも、神さまに負債があるとは思っていません。神さまが憐れんでくださるのは当たり前だと思っています。神さまは憐れみ深いお方だから、憐れんでくださると信じています。しかし、「憐れみ」というのは、どうにもならないことを前にして、可哀想に思って対応してくださることです。神さまは、わたしたち人間を追求して、困らせようとしているわけではなく、愚かで罪深くあろうとも可哀想だと思っておられる。そのお方の憐れみを受けているので、わたしは普通に生きていくことができるというわけです。それが、イエスがたとえで語っておられることでしょう。

わたしたちが今生きているのは、神さまが最後の審判において、わたしたちを可哀想だと思って、憐れんでくださっているからです。神さまの憐れみが最後に働いているので、今を生きることができているのです。この神さまの憐れみがなければ、今生きているわたしはいないということなのです。それが「終わりを生きているわたし」なのです。あえて言えば「終わりから生かされている」ということです。そうであれば、すべての人が罪を赦されているということになります。罪を赦されているので、どれだけ罪を犯しても最後には赦されるということでしょうか。そうではないということは、このイエスのたとえにおいて明らかに語られています。

「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」とイエスが最後に語っている通りです。わたしが今を生きているということは、最後の審判を今生きているということです。終わりを今生きているということです。誰かを赦さないとすれば、終わりにおける自分自身の裁きを、今自分に行っているとも言えます。これが、イエスが今日、わたしたちに語っておられることです。わたしたちは、今というときにおいて、終わりを生きているのです。しかも、自分自身の責任において生きているのです。この責任を回避することはできないのです。わたしが誰かを裁くとき、わたしは自分を裁いているのだと言えます。終わりを生きている今は、今わたしが責任を自覚して生きるとき、真実に救われた今であり、未来であると言えます。

わたしたちの救いは、十字架においてすでに与えられています。それはイエスご自身がわたしの負債を負ってくださったということです。このお方の十字架を仰ぐことは、わたしの未来を仰ぐこと、わたしの終わりを仰ぐこと。終わりを今生きる力をいただくこと。今日共に与る聖餐は、イエスの十字架の赦しをわたしの口と喉で受け取ることです。わたしのうちに入ってくださるお方の憐れみがパンと葡萄酒の形でわたしたちに与えられる聖餐を通して、赦しが普通のこととなる信仰の世界を生きていく者とされるのです。あなたが生きている今は、終わりの今なのです。

祈ります。

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