「希望という義しさ」

2023年9月24日(聖霊降臨後第17主日)
マタイによる福音書20章1節-16節

わたしたちは公平さを求めるものです。日常においても、仕事においても、公平であることが義しいことだと考えています。しかし、すべての人にとって公平であることは、この世ではあり得ません。立場によって、義しさは違います。雇う側にしてみれば、できるだけ安く雇うことが義しい。雇われる側にしてみれば、できるだけ高い賃金で働ける方が義しい。立場が違えば、同じ仕事をすることについての義しさは違ってきます。今日のイエスのたとえでは、最初に雇われた人たちからすれば、雇い主は不公平だと批判される。遅く雇われた人からすれば、雇い主は情け深い人だと思われる。どちらの判断が義しいと言えるのでしょうか。どちらにしても、自分たちにとって良いことが義しいのです。公平さを求めていると言いながら、立ち続けた人の辛さを思いやることのできない人がいる。イエスは、立ち続けていた人たちの味方のようにも思えます。社会から取り残されて、排除されてきた人たちの側にイエスは立っていると思えるたとえです。しかし、そうなのでしょうか。

わたしは以前から不思議だと思っているのですが、「後の者が先になり、先の者が後になる」という言葉を聞くと、この「先になった後の者」は「先になった」時点で、「後の者になる」のではないかと思えてくるのです。そうすると、後になろうと先になろうと同じだということになります。後の者が「先になった」と喜んでいると、先の者として後になることが起こる。先の者が「後になった」と悲しんでいると、後の者として先になることが起こる。これはどちらであろうと、後先のことを考えている限り、比較の繰り返しになっていく。後であろうと、先であろうと、どちらにも義しいこととは何なのだろうかと思えてくるのです。

今日の日課の前の章、19章の最後では。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」とイエスは逆の順番で語っておられます。20章1節の言葉は、原文ではこうなっています。「何故なら、天の国は家の主人である人間と同じように存在しているから」と。「何故なら」と、19章の最後の言葉の理由として今日のたとえが語られるのです。先の者が後になり、後の者が先になると言われて、何故なら天の国はこのようであるからとたとえが語られる。それなのに最後には、後の者が先になり、先の者が後になると言われる。この言葉だけを読めば、語られたたとえの通りの順番で19章の最後の言葉を入れ替えただけだと思えます。ところが、わたしが先に申し上げたように、先になった後の者が後になり、後になった先の者が先になるとしたら、これは入れ替わるだけではなく、後先が問題ではないことになります。果たして、どうなのでしょうか。

このたとえの中で、見失われてしまうのは立ち続けていた人たちのことです。一日中立ち続けるということは何もしないのではありません。誰かが雇ってくれて、少しでも働かせてもらえないだろうかと思って、立ち続けているのです。この人たちは、誰も雇ってくれないこともあり得る中で、立ち続けている。果たして、誰かが雇ってくれるのかと思いながら立ち続けている。そのような人たちの情けなさを知る人はいない。最初に雇われた人たちも同じように、立ち続けていた人たちの思いを知ることはなかったでしょう。自分たちがその立場であれば、彼らは不公平だと言えるのかどうか。雇ってくれた家の主人に感謝こそすれ、雇い主を非難することなどなかったでしょう。しかし、彼らは雇い主を非難します。そして、雇い主からは「あなたとは一日一デナリオンの約束をしたではないか」と言われてしまう。彼らは主人と雇用契約を結んでいるのです。おそらく、雇われた時点では「やったぞ。明日の食い扶持が手に入った。これで家族に顔向けできる。」と喜んだでしょう。そして、立ち続けている人たちを尻目に、ぶどう園に意気揚々と出かけていったのです。

反対に、一日中立ち続けていた人たちは、次々に雇われていく人たちを見ながら、「ああ、またダメだったか。明日は何を食べれば良いのだろう。」と思ったでしょう。この人たちにとって義しいことは、明日を生きる希望があることです。家族に顔向けできないと、立ち続けるしかない人たちは、夕方になって家に帰るのもいやだったことでしょう。「ほんとに甲斐性のない人だね」と妻に言われるだろうなあと思いながら、立ち続けているのです。そのような人が、最後の一時間でも雇ってもらえた。少しでもお金を持って帰ることができる。少しでも明日を生きる希望がある。そう思ったでしょう。そのような人に対して、家の主人は最初に雇われた人と同じだけのものを与えたいと言うのです。そこでは、先の者だから良かったことにはならない。後の者だから良かったとなる。短い時間で同じ賃金をもらえるならば、本当に良かったとなるでしょう。ただし、労働時間は短くても、立ち続けた時間を考えてみれば、彼らの精神的労苦はいかばかりだったことでしょう。しかし、ここで問題なのは働いた人にも立ち続けた人にも同じ時間に見合った賃金が支払われたということではないのです。立ち続けた人たちにも同じ明日への希望が与えられたということです。それが雇い主が考えている義しさだと言えます。

今日のたとえの中で、9時頃に雇われた人たち、つまり二番目に雇われた人たちに主人が言う言葉があります。「ふさわしい賃金を払ってやろう」という言葉です。この原文はこうなっています。「もし、それが義しさとして存在しているならば、わたしは与えるであろう、あなたがたに」。主人は「それが義しさとして存在しているならば」と言っています。つまり、義しさとは何かが問われているのです。ここで主人が言う「義しさ」が後の者にも先の者にも同じように与えられる明日への希望ではないでしょうか。それは賃金で表されている明日を生きていけるという希望なのです。立ち続けていた者にも、一日労苦した者にも、同じ希望が与えられている。これは労働時間に対する公平な報酬というこの世の価値を超えた義しさではないでしょうか。雇い主である家の主人が与えたかったものは、明日を生きる希望なのです。それは、イエス・キリストの十字架によって、すべての人に与えられている希望と同じです。それゆえに、天の国はこの主人と同じように存在しているとイエスは言うのです。

この希望は、最後の者にも確実に与えられるものです。ですから、後になろうと構わない。先にいたから多くもらえるわけでもないのです。皆同じ恵みを与えられる。それが天の国なのです。しかし、これを不公平だと言う人が出てくるであろうことを見越して、イエスはたとえを語っておられると言えます。後になったら先になり、先になったら後になる。しかし、後になっても先になり、先になっても後になる。そして、与えられる報酬は同じ。

わたしたちキリスト者も長い間信じ続けたから偉いのではありません。短い時間しか信じていないから劣っているのでもありません。どちらにも同じ救いが与えられている。その救いに優劣も大小もないのです。からし種のような小さな信仰であろうとも、信仰が与えられているならば、山をも動かすことができるのです。それが、神が与えてくださる信仰であり、明日への希望なのです。

信じるということは、時間や量の問題ではありません。信じることは単純に信じることです。聖書の詳細を知っているから信仰が深いわけではありません。聖書の言葉を空で言えるから信仰が多いわけでもない。信じるという出来事が神の恵みであるならば、そこに大小はない。ただ信じているという状態しかないのです。今日のたとえで、雇い主を批判した人が、賃金をもらえなかったわけではありません。自分の分をもらって行きなさいと言われただけです。彼もまた同じだけのものをもらっている。たとえの中で、何ももらえなかった人はいません。主人を批判する人にも、主人は明日への希望である賃金を与えている。先であろうと後であろうと与えられるものに違いはない。そうであれば、後先を比較したり、信仰の深さを比較したりすることの愚かさをわたしたちは知らなければなりません。単純に信じる人は幸いなのです。希望を与えられている幸いな人なのです。この恵みを今日も確認して、神の恵みは必ず与えられると信じて、歩み続けていきましょう。みなさんは天の国に生きているのです。

祈ります。

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