「同じ世界はどこにある」

2023年10月1日(聖霊降臨後第18主日)
マタイによる福音書21章23節-32節

わたしたちは立場というものを持っています。それぞれの人に立場がある。その立場から世界を見ています。みなさんは、町ですれ違った人たちそれぞれに別々の世界があると考えたことがありますか。家族は皆同じ世界を見ていると思いますか。わたしはわたしの視点を中心として世界を見ています。わたしの配偶者は配偶者の視点を中心として世界を見ています。すれ違った町の人もその人の視点を中心として世界を見ています。家族と言えども、違う視点で見ているのです。その世界が同じだと誰が言えるでしょうか。わたしと違う世界を見ているのに、同じ世界だとは言えません。

今日の聖書に出てくる徴税人や娼婦たちが見ている世界は、権威や立場を持った人たちが自分たちを支配している世界です。自分たちはその世界の中で、申し訳なさそうに生きていかなければならない。大手を振って生きることはできない。世界の中心である祭司長や長老や学者たちからは、「お前たちは罪人だから、そのような立場に置かれて、神さまの罰を受けているのだ」と言われていたのです。そのような罪人たちの汚れに汚染されないように、社会を守らなければならないと祭司長も長老も懸命に汚れを取り除いていた。彼らが見ている世界は汚れていない世界なのですから、汚れを追い出すことで、清い世界を保つことができると考えています。

しかし、祭司長たちであろうと長老たちであろうと、彼らの世界からこぼれ落ちるということがあります。徴税人のように敵であるローマの手先だと思われることもあるかも知れません。病気になって汚れていると言われることがあるかも知れません。そのような立場に変わったとき、彼らの見ている世界も変わります。視点が変わります。変わった視点から見る世界は違って見えることでしょう。何と冷たい世界なのかと思うかも知れません。今まで、自分はこんな世界に同意していたのかと思うかも知れません。

わたしたち一人ひとりは別々の世界を見ています。それぞれの世界を見ています。それぞれに自分を中心として見える世界しか見ていないのです。ところが、皆同じ世界を見るということがあるのです。すべての人がその他大勢として生きている世界です。その中心にいるのは神です。つまり、神の国、神の世界は神が中心であり、わたしたち人間は立場が違おうとも同じ神の民として生かされている世界なのです。この世界こそがすべての人が同じ世界に生きている世界です。

「ぶどう園へ行って働きなさい」と言った「父親の望み」という言葉は原文では「父の意志」です。それに続いて、徴税人や娼婦たちの話の中で「父の意志」と言われている事柄は「神の意志」を表しています。ヨハネが示した「義の道」というのも「神の意志」のことです。そのように見てみると、祭司長たちと徴税人たちとは、それぞれに見ている世界が違う者たちであるわけですが、どちらに対しても同じ一つの「神の意志」がヨハネによって示されているということです。それぞれに違う世界で、中心である自分の立場を生きている者たちであろうとも、同じ一つの「神の意志」だけは変わりなく示されている。だとすれば、世界の中心は「神の意志」だと言えます。その中心によって生かされている存在がわたしたち一人ひとりなのです。

ところで、今日の日課の最後でイエスがおっしゃる言葉「後で考え直して」という言葉が語っているのは、どのように考え直すことを語っているのでしょうか。「ヨハネが来て義の道を示した」ことに対して考え直すことですね。ヨハネが示した「義の道」というのは「神の意志」でした。二人の兄弟のたとえでは「ぶとう園に行って働く」ことが「父の意志」でしたね。従って、父の意志、神の意志に従うように「考え直した」か否かをイエスは問うておられるわけです。自分たちの立場から離れて、「神の意志」に従う道を踏み直したかということですね。これができたのが「徴税人や娼婦たち」だとイエスはおっしゃっているのですが、彼らには立場はありませんでした。彼らが見ている世界において、自分たちは立場のない脇役の世界だったことでしょう。もちろん、自分が中心の世界なのですが、その自分自身が世界の脇に置かれている世界でした。彼らには立場がある世界ではなかったのです。そのような彼らがヨハネの言葉を聞いて、「神の意志」が中心である世界を受け入れたのです。ところが、祭司長たちや長老たちは、自分たちが中心ですから、自分たちがその立場を捨てて、「神の意志」に中心を譲ることができなかったということです。

わたしたちは自分が持っている権利や権益というものを手放したくありません。自分たちの既得権益を守るために努力します。努力しているのは自分のためです。神のためではありません。自分たちの立場を守るために懸命になっている祭司長や長老たちと、自分たちの立場もない徴税人や娼婦たちでは「考え直す」と言っても、まったく違う事柄なのです。自分の持っている権利や権益を捨てることができない人と、もともと権利も権益も持っていないので捨てるものもない人とではまったく違いますね。こう考えてみると、徴税人や娼婦たちの方が容易く「神の意志」に従う道に入ることができたと言えます。それで、イエスはこう言うのです。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と。

この言葉には「先導する」とか「先に行く」、「通り過ぎる」という言葉が使われています。ということは、徴税人たちが祭司長や長老たちを先導して神の国に入るということになります。祭司長や長老たちは神の国に入ることができないとはイエスはおっしゃっていません。徴税人たちの方が「先に行く」または「あなたがたを神の国へと先導する」と言われているのです。ということは、彼らが先に神の国に入って、「こっちだよ」と招いているというイメージになりますね。祭司長や長老たちは、自分たちが徴税人や娼婦たちを神の国へと導く存在だと思っていました。ところが、イエスはまったく逆転したイメージを提示したのです。では、この逆転した世界は本当なのでしょうか。

地上の世界においては、立場のある人たちが見ている世界が本当の世界だと思いがちです。立場のない人たちも、立場を持つことができるように努力する世界です。立場のある人たちが中心ですから、彼らの立場に同意して、参加する人は認められますが、そうではない人は認められません。そのような世界は、それぞれの立場を持っている人、それぞれの権利を持っている人の世界です。そこでは「神の意志」は脇に置かれています。中心は自分たちの立場だというわけです。ですから、彼らが「神の意志」の世界である神の国へと入るためには、自分の立場を捨てて、離れなければならない。立場のある人が自分の立場を捨てることができるでしょうか。それが困難な道なのです。イエスが別の個所でおっしゃるように「狭き門」なのです。

ところが、徴税人や娼婦たちにとっては「狭き門」ではありません。容易く入ることができる門なのです。だからこそ、彼らが祭司長や長老たちを先導すると言われているのです。わたしたちキリスト者という存在は、徴税人や娼婦たちと同じように、自分の立場などないと認めた一人ひとりです。「神の意志」こそが真実の中心であることを見出したわたしたちなのです。すべての人が同じ世界に生かされている中心とはどこにあるのかを「考え直す」ことが可能な一人ひとりであったと言えます。

わたしたちが同じ一つの世界、神の意志に従う世界を生きるために、イエスは十字架を負ってくださった。神の意志がなりますようにとゲッセマネで祈り、十字架を負ってくださった。このお方が、ご自身の体と血をわたしたちに与えてくださる聖餐を通して、わたしたちがイエスのように自分を捨て、自分の十字架を負うようにと導いてくださるのです。イエスは徴税人や娼婦たちよりも先に神の意志に従ったお方。わたしたちを先導してくださるお方。人々から蔑まれ、捨てられ、殺されたイエスが、わたしたちの主。わたしたちの救い主。このお方の体と血に与って、真実に生きる道、すべての人が同じ世界に生きる道を主に従って歩いて行きましょう。

祈ります。

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