「正しい驚きへと導かれ」

2023年10月8日(聖霊降臨後第19主日)
マタイによる福音書21章33節-46節

わたしたち人間は、自分が判断して捨てたものを他人が拾うと、「あ、もったいなかったなあ」と思うものですね。「あ、それわたしのです」と取り返したくなります。他人が喜んでいる姿を見て、そのままにしておきたくないのでしょうね。妬みとまでは言えないでしょうが、そのような心がわたしたちのうちに起こってくるとき、わたしたちは人がどう思うかを判断根拠にしています。「わたしは捨てたのだから、他人が拾おうとも構わない」とはならない。そこにわたしたち人間の罪があります。周りの人間に振り回されるわたしは、自分を持っていないということになります。また、みんながやっているから大丈夫だと思うときにも同じ価値観で生きていますので、やはり自分を持っていないのです。

今日のイエスのたとえで引用されています旧約聖書の言葉、詩編118編22節の言葉が語っているのは、他人が拾ったわけではなく、神が置いた隅の親石ということが語られていますので、家を造る人たちが「やっぱり使おう」と言ったわけではありません。彼らやその時代の人々には「驚きだった」と言われています。新共同訳では「不思議に見える」と訳されていますが、この言葉は「驚き」という言葉です。つまり、「そんなものを使うなんて」という驚きでしょう。ですから、もったいなかったというわけではありません。そんなはずはないという驚きなのです。このような驚きを与えるのが、神さまが置く行為なのだと述べられているのです。では、この詩編の言葉が意味することが、イエスのたとえの意味なのでしょうか。

イエスのたとえでは、王さまの後継ぎである息子を外に放り出して殺害していますが、王の息子を殺害した人間が殺害してもったいなかったと思うわけではありません。殺害して、相続分を手に入れたと思っていたのです。ところが、彼らを王が殺害して、収穫を納める農夫に貸すだろうと言われるわけです。そして、詩編の言葉が引用されています。その言葉が語っているのは「驚き」です。ですから、息子を殺害した人たちが、これで上手く行ったと思っていたところに、軍隊がやってきて自分たちが殺されてしまうわけで、それこそ「驚き」だったでしょう。しかし、詩篇の言葉に従えば、彼らが殺害されることが驚きだということではなく、彼らが殺害した息子、たとえでは「捨てられた石」が捨てられ殺害されてもなお後継ぎとして正しい位置に置かれることが驚きだと言えます。そうであれば、人間が思うようにはことは進まないということ以上に、殺害してもなお、王の意志が貫徹されて、息子が王位に就くことが驚きということになります。ところが、たとえでは息子が王位に就くわけではありません。息子は死んでいますので、王位はそのまま継続されます。そして、継続されながら、別の農夫にぶどう園が貸し与えられるとなっているのです。だとすれば、驚きにはならないだろうと思えてきます。「当然、農夫たちを殺害します」と、話を聞いていた人たちはそう答えているのです。

このように考えてみると、当事者である息子の殺害者たちには驚きであるけれども、客観的に見ている人たちには驚きでも何でもないのです。報復するのは当たり前でしょうと思うわけです。では、イエスはこのたとえの出来事の中で、なぜ驚きを語る詩編の言葉を引用したのでしょうか。そこが不思議な点です。

驚きであるということは、息子を殺害した農夫たちにとっては自分たちがぶどう園を支配することが当然だと思っていたということです。それが覆されたので、驚きです。しかしまた、息子は死んでいますから、跡取りはいないということになります。それではこの後に貸した農夫たち、季節毎に収穫を納める農夫たちが跡取りとなるかと言えば、そうではありません。では、どうなるのでしょうか。

このたとえで殺害される息子がイエスの十字架を表しているとすれば、復活をも前提とされていると考えるべきでしょう。そうであれば、死んだ息子が王に代わって支配する国が来る。それが天の国であるということになります。死んだ息子は、やがて来る天の国の隅の親石となったということです。後のキリスト教会はこの詩編の言葉をそのように理解しました。

イエスの十字架と復活は、神が造った世界を人間が支配しようと考えた結果、神の息子であるイエスを殺害して、自分たちの支配を確立したと思ったところに起こった神の出来事だということです。殺害された息子が隅の親石となるという神の御業です。それは、自分たち人間がこの世界を支配できると思っていた人間にとっては驚きなのです。しかし、人間が支配する世界が天の国ではないと生きている人にとっては、驚きではなく当然のことだと受け取られるでしょう。それが天の国なのだとイエスはおっしゃっているのです。

このたとえを聞いた祭司長やファリサイ派の人たちは、自分たちのことをイエスが語っているのだと認識して、イエスを捕まえようとしました。つまり、彼らはイエスを殺害するために捕まえようとしたわけです。その彼らの行為そのものが、イエスがたとえで語っている通りになったのです。ここではまだ、周りを気にして、手を出すことができなかったのですが、後に手を下すことになります。自分たちが支配する世界を手に入れるために、彼らはイエスを殺害する。イエスのたとえはそのように語っているのです。そして、語られたたとえの通り、現実にイエスの十字架刑が行われます。祭司長やファリサイ派の人たちは、たとえを聞いて、自分たちを批判していると思い、イエスを殺害しようとする。イエスのたとえが彼らの殺害動機になっている。これはおかしなことです。通常ならば、たとえを聞いて、自分たちのことだと思えば、悔い改めると思われるところで、自分たちを批判していると受け取って、批判するイエスを殺害しようとする。結局、彼らはイエスのたとえが語っている通りに行った。たとえに語られていることを現実にしてしまった。だとすれば、イエスはこんなたとえを語らなければ良かったのにと、わたしたちは思ってしまいます。ところが、このたとえは語られなければならなかったのです。なぜなら、神の言葉だからです。

神の言葉が語られて、それに従う人と従わない人が生まれます。そのどちらにも神の言葉が語られています。従う人も従わない人も、同じ神の言葉を聞いています。神の言葉が信仰者に受け入れられると同時に不信仰者には受け入れられず、彼らは神の言に反抗して殺害者となる。そして、神の言葉が実現する。

この事実を驚く人と、驚かない人がいます。驚く人は、神が悪や殺人者を生むのかと驚くわけですが、驚かない人は、神の言葉は受け入れない人には呪いとなると了解している人です。しかし、福音は驚きであると言う人たちもいます。確かに、こんな罪人のわたしが救われるのかということは驚きでしょう。こんなわたしを救ってくださるために、イエスは十字架を負ってくださったと信じる者には驚きでしょう。何の功績もないわたしを救ってくださるために十字架を負ってくださったイエスを知ることは驚き以外の何ものでもありません。ところが、このように信じる人は驚きを感じるがゆえに、悔い改めるのです。つまり、神の言葉を素直に受け入れているのです。一方で、そんな驚きなど感じない人は悔い改めないのです。そうであれば、詩編の引用の言葉が語っている驚きは、悔い改めた人の驚きなのでしょうか。先ほど、見ましたように反対です。信じる者は驚かない。信じない者が驚く。信じる者は悔い改める。信じない者は悔い改めない。そうすると、詩編の言葉が「驚き」と語ることとは正反対のことになるのではないかと思えます。ところが、そのように考えるわたしの顔がどこに向かっているのかが問題なのです。

悔い改める者の顔は神に向かっています。悔い改めない者の顔は自分に向かっています。そして、驚いている。この場合の驚きは「そんなはずはない」という驚きです。それではわたしは救われないではないかという驚きです。ぶどう園を手に入れたと思っていた農夫たちも驚いたのです、「そんなはずはない」と驚いたのです。殺されて当然ですと思う人であれば、殺されることはなかった。むしろ、殺されて当然だと思っているので、殺されるようなことはしなかった。そして、驚くこともなかったでしょう。

わたしが神に向かっている時、わたしは裁かれることを当然と受け入れます。しかし、受け入れた者を神はキリストの十字架において赦してくださる。その人は、この不思議な神の御業に驚き、そして神が置いたものを受け入れる。反対に、わたしがわたしに向かっている時、わたしは自分の思い通りにことが運ばないことに驚く。神の御業を受け入れることなく、神が立てた十字架をわたしのための十字架と受け入れることはない。そして、悔い改めもしない。

わたしたちは、どちらに属するのでしょうか。神の御業を驚く人でしょうか。自分の計画の挫折を驚く人でしょうか。わたしたちが、神の御業を正しく驚くキリスト者として生きていくために、キリストは十字架を負ってくださったのです。十字架を見上げる者は必ず正しい驚きへと導かれ、神の僕として、神さまの相応しい時に従って生きていくのです、季節毎に収穫を納める農夫のように。このように生きる者であるようにとイエスはたとえを語ってくださっています。イエスのみことばがあなたを形作ってくださいます。素直にみことばに聞き従って、生きて行きましょう。

祈ります。

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