「ふさわしい重さ」

2023年10月15日(聖霊降臨後第20主日)
マタイによる福音書22章1節-14節

今日のイエスのたとえは結婚式です。めでたい結婚式なのに、町が滅ぼされるようなことが起こったという話です。そこまでするのかと思うと、恐ろしいですね。その後、お祝いなど包めない人たちが招待されます。招待した主人は、お祝いなどいらないから、一緒に祝ってほしいと考えているわけです。「とにかく来て」と言われた場合、本当にお祝いを包まなければ、後で何と言われるか分からないとわたしたちは思うものですが、ここでは何も知らないで連れてこられた人が、お祝いの服を着ていないということで、追い出されています。やはりなあと思う人もいるでしょうね。ところが、当時の結婚式では礼服というのは招いた主人が用意していたと言われます。特に、今回は町の大通りの角に立って、だれでも良いから連れてくるように主人は僕に命じていますから、礼服など持っていない貧しい人も来たことでしょう。善人も悪人も連れてこられたと記されています。しかし、主人が礼服を用意しているので、貧しくて礼服がない人でも礼服を身につけることができたわけです。それなのに、礼服を着ていないとはどういうことかと主人は怒っているわけですね。これは招かれたことに対する礼儀のような感じですね。みなさんは、どう思いますか。

礼服を主人が用意していたとすれば、その礼服を身につけることを拒否したのが礼服を身につけていない人ということになります。どうして、礼服を身につけなかったのでしょうか。たとえでは、この人は黙っています。どうしてなのかは分からないけれど、礼服を身につけていなかった。返答できないところを見ると、彼は来たくなかったのかも知れません。無理矢理連れてこられて、イヤイヤそこにいたのかも知れません。礼服を準備していた主人からすれば、婚宴に来ていながら拒否するとはどういうことかと思ったことでしょう。あからさまな拒否と映ってもおかしくありません。どうして、その人は招きに応じたのでしょうか。無理矢理連れてこられて「来たくなかったのになあ」と思い、こんな偉そうな金持ちの言いなりになるのはイヤだと思っていたのかも知れません。そうであるならば、最初から断っていれば良かったのになあと思います。とにかく、彼は礼服を着ていなかった。内面がどうであろうとも、表面的には祝宴の拒否となってしまいます。それで主人は追い出すわけです。これを主人の横暴だと言う人もいるでしょう。勝手に連れてきておきながら、自分の言うことを聞かないからと言って、追い出すとは横暴なやつだと批判する人もいるでしょう。果たして、どうなのでしょうか。

多くの人が貧しい人だったとすれば、その人たちは主人が用意した礼服を着る部屋に連れて行かれたはずです。その部屋に行きながら、この人は礼服を身につけることをしなかった。そうであれば、やはりあきらかな拒否でしょう。そう考えてみれば、最初に招待された人たちがいろいろ理由をつけて拒否したことと同じなのです。では、最後に語られている「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」という言葉はどう理解すれば良いのでしょう。礼服を身につけている人が選ばれた人ということでしょうか。その人たちは主人が用意した礼服を身につけただけなのです。しかし、イエスはここで、選びということの意味を違う次元で語っているのです。

この主人は「王」と言われていますので、「神」を象徴しています。神が選ぶのは、神の意志に素直に従う人だということでしょうか。いえ、神の選びは素直に従う人を選ぶということではなく、その人自身が選ばれた人であることが現れるのが、素直に従う姿なのだということです。つまり、その人の内実が外に現れるということです。これはエレミヤなどの預言者たちが語っていることとつながっています。

エレミヤは神の声を聞き、預言者として召されますが、神はエレミヤに言うのです。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」とエレミヤ書1章5節に記されています。エレミヤが何も分からないときにすでに選ばれていたというわけです。そのエレミヤが成長して、預言者として召されることになる。だとすれば、エレミヤは預言者として召されたときに、相応しい外見や態度だったということではないのです。すでに選ばれていたからこそ、神の言葉を素直に聞く預言者であったということです。預言するようになる遙か以前、母の胎に造られる前からエレミヤは預言者なのです。その姿が後になって現れてくるということです。それゆえに、選びは外面的な姿によって選ばれるということではなく、神がすでに選んでいたからこそ外面的姿が現れるということです。その姿が選びに相応しい姿だということです。

王である主人はこう言っています。「招いておいた人々は、ふさわしくなかった」と。そうです。彼らは相応しくなかったのです。相応しさは彼らの姿に現れなかったということです。神が造るのは、わたしたちの内面であって、外面ではないのです。内面が造られて、外面に現れるということなのです。ですから、選ばれていなかったということが招きを拒否する外面的な姿に現れるということになります。主人が言う「ふさわしくなかった」というのはそのような意味です。この言葉は「価値」という言葉ですが、天秤にかけた重りと釣り合いが取れることを意味しています。つまり、王の招きと同じ価値の重さを持っている人という意味なのです。では、同じ価値の重さが最初から与えられているのであれば、選ばれる人と選ばれない人は最初から決まっているということにならないでしょうか。わたしたちはそう思います。ところが、そうではないのです。

同じ価値の重さを皆が与えられているということが、大通りの角に立っている僕がすべての人を連れてくるということなのです。最初に招かれた人たちにも同じ価値の重さがあった。しかし、彼らは自らの重さを自分で量り、王の招きなどわたしの価値に比べれば取るに足りないと考えてしまったのです。つまり、彼らは自分で自分の価値を計っているということです。価値を計る、重さを量るのは王である神なのに自分で量る。そうすると、自分本来の重さである神が置いた天秤の重りと自分が考えた自分の重さの間で釣り合いが取れなくなるのです。主なる神に従うということは、天秤の量りに神が乗せた重りを自らの重さとして受け入れるということです。それは当然です。神があなたに重さを与えておられるのですから、神が量る天秤にわたしが乗るとすれば、神が量った重さのままに乗るということです。それなのに、自分で自分の重さを量って、神の重さ以上の自分であるなどと思い上がっているのが、最初に招かれた人たちだったということです。さらに、礼服を着ていない人は、その天秤に乗ることさえ拒否したということです。そうすると、主人が用意した礼服はその人の本来の重さだということになります。それを自分自身で拒否して、「そんなものは着たくない」、または「そんなものを着なくても良い」と考えていることになります。自分を多く見積もる人も少なく見積もる人も、結局神が与えておられる重さという価値を受け入れない人なのです。それで、外に追い出されることになるわけですが、それは自分から自分を拒否して、神を拒否しているということになるのです。あなたに相応しい重さは神が与えておられるのに神の価値を拒否するということになる。それはまた、神の創造の御心を拒否することにもなります。

わたしたちは自分のことは自分が良く分かっていると思い込んでいますが、わたしが分かっていると思うのは自分で決めた自分の価値でしかないのです。本当には、自分のことをわたしは分かっていないのです。神が与えてくださっている重さを分かっていない。まして、神がわたしを価値ある存在と思うがゆえに起こったキリストの十字架の重さを分かっていないということになります。それが自分を知らない人間、原罪を負った人間なのです。

この罪深いわたしたちのためにキリストは十字架を負ってくださったのですが、あなたに価値がないのに負ったということではなく、あなたに価値を与えた神の御心を拒否しているあなたが正しい価値に生きるようにと受け入れてくださったということなのです。わたしたちが信じるという事柄、信仰というものは神がわたしたちに与えるものです。わたしたちの罪深い姿にも関わらず、あなたの本来の価値を認める目を開く信仰を与えてくださる。あなたは、神がお造りになったのですから、完全な良い存在としてお造りくださった。しかし、原罪によって、わたしたちは神が与えてくださった価値を見失っている。その価値を正しく見て、受け入れて、神に従う道へと導くために、キリストは十字架を負ってくださったのです。

今日、共にいただく聖餐は、イエス・キリストのいのちの重さはあなたのいのちの重さに等しいと神が宣言してくださることなのです。そして、あなたのいのちの重さのために身を献げてくださったキリストと一つになる出来事です。このお方の重さに相応しい者として選ばれていることを感謝していただきましょう。あなたは自らの重さを受け入れるだけ。そのあなたの魂とキリストは一つになってくださいます。

祈ります。

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