「真実を生きるために」

2023年10月22日(聖霊降臨後第21主日)
マタイによる福音書22章15節-22節

わたしたちは自分の気持ちなどを隠していることがあります。自分を隠して、さも正しいことを行っているかのように見せることがあります。わたしたちの心の奥にある悪い心は、それでも見えてしまいます。イエスが今日、ファリサイ派の人たちの心の悪を見抜いたのも、彼らの顔つき、彼らの慇懃無礼さによってであろうと思われます。うそつきは隠しているつもりで、隠せないということです。

以前の説教でお話ししましたように、うそをついているというとき、わたしたちは居心地の悪さを心に持っています。その居心地の悪さを無視しなければ、うそをつくことができないのです。居心地の悪さを感じさせているものが「良心」だとお話ししました。この「良心」は意識のことですから、居心地の悪さを意識している人が、その意識に蓋をすることでうそをつくことができるということです。そのようなとき、その人は自分自身の心、意識に対してもうそをついているわけです。それが重なっていけば、うそをついても何も感じなくなり、うそはその人にとっての本当のことになっていきます。これが、わたしたちが抱えている原罪のなせる業だと言えます。

真実が真実ではなくなっていくということは、わたしたちの生き方にも現れてくることになるわけです。それで、イエスはファリサイ派の人たちの悪しき思いを見分けたのです。今日の聖書の最初にありますように、彼らは「どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した」のです。原文に従えば「言葉において、罠にかけるために共同謀議した」となっています。

「言葉において罠にかける」という言葉を、「言葉じりを捉えて罠にかける」と訳しているわけですが、原文から見れば言葉を罠にかけるための手段にするということです。イエスが語る真理の言葉が、罠になるということです。イエスの言葉が真理であるならば、神の言葉です。そうすると、神の言葉をもって罠にかけるということになります。まるで、荒野の誘惑の悪魔のようなものです。神の言葉を悪しき計画に用いるのですから、そのような人たちは悪魔のような存在だと言えます。

では、ローマへの税金に関する神の言葉があるかと言えば、ありません。律法で語られているのは、十分の一の献げものです。旧約聖書の中で、十分の一の献げものはお金ではなく、穀物や動物でした。そのうちに、お金による経済が生まれると、お金を献げることも生まれてきました。そして、神殿税のようにして献げるようになってきたと考えられています。その神殿税には、汚れた異邦人の外国の硬貨は使えませんでした。それで両替商がイスラエルの硬貨と両替していたのです。そのような背景があったわけですが、ファリサイ派の人たちはローマの支配下にある自分たちがローマに税金を納めることに対して、不満を感じていたようです。そして、ローマへの税金を取り立てる徴税人たちを罪人としていました。彼らは、自分たちが感じているローマへの不満をイエスも同じように感じているであろうと考えていたのでしょう。それで、当然ローマへの税金については律法に規定されてもいないことを知っていましたから、律法で許されてはいないとイエスが答えるであろうと思っていたのです。

神への献げものと税金とは別の次元に属しています。神への献げものは任意の献げものであって、献げる人が神への感謝として献げるわけです。願いのために献げるという人もいたかもしれませんが、それはすでに叶えられていると信じて献げるわけですから、やはり感謝の献げものとなるのです。ですから、信じていない人は神に献げることはないのです。一方で、税金というものはこの世の法律で決まっているものですから、律法とは別の次元に属しています。ですから、ファリサイ派の人たちは、イエスが律法に規定されてはいないローマの税金について、納める必要は無いと答えるであろうと考えたのです。そうなれば、ローマに反旗を翻したと言って、ローマ帝国に敵対する者としてローマの官憲に差し出すつもりだったのでしょう。ところが、イエスは税金に納める硬貨を持ってくるように言いました。そこにあったのは、皇帝の肖像と皇帝の名前です。それで、その貨幣は皇帝のものであるとイエスは言ったわけです。皇帝の銘が入った貨幣なのだから、この貨幣は皇帝の所有物であるというわけですね。これはこの世の事柄として真実ですから、誰も反論できない。そして、さらにイエスはおっしゃっています。「神のものは神に」と。

このイエスの言葉は、「皇帝のもの」と「神のもの」を分けて考えたと思われがちな言葉ですが、そうではありません。神のものには肖像も銘もありません。たとえば、わたしたち人間も神の被造物ですから、神のものです。でも、誰の体にも神の銘は入っていません。だから、分けているのではなく、神の名が記されていなくともすべては神のものであるというところにイエスは立っておられるのです。そのすべてのものの中で自分が鋳造した貨幣に銘を入れているローマ皇帝は地上の事柄としての所有権を主張しているのです。その貨幣は、所有権を主張する人に返しなさいとイエスはおっしゃっているだけなのです。言葉において、罠にかけようとした人たちが目指していたこととは違う次元で、硬貨の所有者銘に従って所有者に返しなさいとおっしゃっただけなのです。それで皆驚いたというわけです。議論が違う次元に行ってしまったからです。

イスラエル王国で使用されていた硬貨にはイスラエルの王の銘が入っていたでしょうが、イエスの当時はローマ帝国の属州で王はいなかったのでイスラエルの貨幣鋳造局の銘が入っていたのかも知れませんね。その貨幣は、貨幣鋳造局の所有となるので、イエスの論理から言えば返すべきは貨幣鋳造局にということになるわけです。そこまでイエスはおっしゃっていませんが、これらの事情を考えてみれば、税金の問題ではなく、その人の信仰の問題なのだとイエスはおっしゃっているように思います。つまり、貨幣の銘に従えば所有者が存在するのですが、銘がなくても、すべてのものは神のものです。それは信仰においてしか確認できないということです。神に献げる人の信仰に従って献げられるものが献金なのです。献げられた献金は、神殿の修理などやそこで働く祭司たちのためにも用いられました。そのようにして、神のものから生じたお金で生活していた人たちがいます。そのような体制を作っていたのは、神殿を管理する祭司長や長老たち、そしてファリサイ派の人たちだったわけです。この神殿体制は、ローマの支配体制と同じ次元のものです。すべてが神のものであるならば、神のものを人間が自分たちの生活のために使っているということです。ファリサイ派もローマも同じ次元にいるのです。それにも関わらず、自分たちは神のために働いていると思い込んでいる。そのような立場からは、ローマに税金を納めることには反対だったでしょうね。しかし、仕方が無いと従っていた。本当のところは、自分たちがローマに反旗を翻したいのですが、その思いを同じようにイエスも感じているだろうと考えて、罠にかけて、ローマに突き出そうと共同謀議を図ったのです。それをお見通しのイエスは、税金問題ではなく、貨幣の所有者の問題を提起したということです。

この所有者の問題で、イエスが答えた言葉は神の言葉なのでしょうか。そうです。神の言葉です。所有権を主張するこの世の人間に対しては、主張する所有権を認めて返しなさいとイエスは言うのです。しかし、本来の所有者は神です。ですから、神のものとあなたが信じるならば、神に返しなさいとイエスはおっしゃったのだと言えます。つまり、ファリサイ派の人たちの信仰を問うたということです。

信仰に従って、真実を実行するのかどうかを問うたとも言えます。ファリサイ派の人たちもイエスと同じところに立っているのかも知れませんが、彼らは自分にうそをついて、税金を納めている。にも関わらず、イエスを罠にかけようとする。そこに、偽善が働いている。「うそつきめ」とイエスはおっしゃっていますが、そのことを指摘していると言えるでしょう。そして、ファリサイ派の人たちが自分自身にもうそをついていなければ、ローマ皇帝に税金を払うことはないわけですから、彼らが自分たちをうそつきとは思ってもいないということです。最初は思っていたとしても、居心地の悪さを誤魔化しているうちに、「これは仕方ないことなのだ」と自分を納得させていたのでしょう。そして、自分へのうそが真実になっていったのです。それなのに、自分と同じように考えているであろうと思われるイエスを罠にかけようとする。これこそ、意地の悪いうそつきです。

そのような彼らの思惑を越えて、イエスは彼らに問いかけていると言えます。このイエスの言葉は神の言葉です。なぜなら、神のものとは何かを問うているからです。銘がなくてもすべては神のものだと語っていると言えます。その信仰に忠実に従いなさいとおっしゃっているのです。

この信仰に忠実に従う生き方をイエスは貫きました。そして、十字架に架けられてしまった。ファリサイ派の人たちは、自分の信仰に忠実に従って十字架に架けられることは避けたい。そういう人たちが「うそつき」だとイエスは言うのです。この言葉は、今日イエスの言葉を聞いているわたしたちにも問いかけられています。あなたは信じるのか、すべては神のものであると。神のものを使わせていただいて、生活していることを認めるのか。そして、神によって与えられた十分の一を神に返すのか。あなたがたは信仰に従って、真実に生きることを求めるのかともイエスはわたしたちに語り掛けておられる。自らを騙すことなく、居心地の悪さを覆い隠すことなく、裸のあなた自身でわたしに従うのかと問うておられる。あなたは神のもの。あなたのすべては神のもの。この世界のすべてを神が支配しておられる。その世界の中で、神はご自分のものをあなたに与え、使うことを許してくださっている。このお方に真実に従って生きるのかどうか、それを可能にするのは信仰のみなのです。与えられた信仰に忠実に従って生きて行きましょう。

祈ります。

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