「真理が自由にする人」

2023年10月29日(宗教改革主日)
ヨハネによる福音書8章31節-36節

みなさんは自由という言葉を聞くと、どんなことを考えますか。普通に生活している中では、不自由だと感じることはあまりありません。会社やグループなど決まり事がある集団に入ると、不自由だと感じることが増えてきます。さらに、不自由になる場合は、犯罪を犯して、牢獄に入れられた場合かも知れません。わたしたちは、普通には自由ですが、さまざまな人と関係を持つことによって、不自由さを感じてくるものです。それが単なる人間関係だけであれば、そんな面倒なことから逃げれば良いわけですが、逃げることができないことも起こります。そうすると、心を病むということも起こってきます。自由であることで安心して生きていた人間が、いろいろと面倒なことを抱えて生きるうちに、苦しみが増えていくものです。そうして、自由になりたいと思い始める。何事もなく過ぎているうちは自由になりたいとは思いません。今日イエスが語った自由について反論するユダヤ人たちは何事もなく生きていた人たちでしょうね。だから、自分たちは誰の奴隷にもなったことがないと言うのです。ところが、イエスは「罪を犯す者は、罪の奴隷である」とおっしゃるわけです。この言葉が示しているのは、人間の内面における奴隷状態です。外面的には、奴隷ではないのに、内面においては奴隷である。その奴隷状態から解放するのが、真理であるとイエスはおっしゃっているのです。

内面的奴隷状態というのは、通常人間は感じていません。辛い状況に陥ったときに、誰かに支配されて辛いとか、誰かの言うままにしなければならないことが我慢ならないと思い始めます。そのときには、外面的には奴隷というものではないとしても、精神的に追い詰められて奴隷状態になっているということがあるわけです。そこから抜け出すとすれば、反旗を翻して、支配している人から離れることが必要になります。しかし、それでもなお、罪の奴隷という状態から抜け出すことはできない。それはわたしたち人間の奥深くに宿っている原罪の働きなのです。そこから抜け出すには、原罪が働かないようにしなければならない。そのために、真理が与えられるのだとイエスはおっしゃっているのです。

真理というギリシア語は、隠れるという言葉に否定の接頭辞がついた言葉です。ア・レーテイアという言葉です。隠れることを否定しますので、隠れなくあることが真理だと言えます。つまり、誰にも隠すことなく、誰にでもありのままに見えるもの、それが真理だということです。わたしたち人間は隠すことによって、罪を犯しました。アダムとエヴァは自分たちが犯した違反が神さまにばれないようにと、隠れました。さらに、裸である自分をイチジクの葉で隠しました。隠れること、隠すことが聖書が語っている罪の現れであると言えます。

隠すことがあると、誰でも隠したことがばれないようにと考えます。隠していなければ、何も心配する必要がないのに、隠しているために、余計な心配が増えていきます。こうして、罪というものは、わたしたちを縛り付けていくのです。罪を犯している者は、罪の奴隷であるとイエスがおっしゃるのは当然です。罪を犯せば、罪がばれないようにすることが至上命令になって、ばれないかといつも気にしているために、他のことが手につかなくなるということに陥ってしまいます。隠していないならば、気にすることもなく、普通に生きていたのに、それができなくなります。罪の奴隷状態は、このようにわたしを縛り付けて、生き難くするのです。

このような奴隷状態は、わたしたちの内面的なものです。精神的なものです。それで、わたしたちは外面的に自由を生きているつもりで、内面的に奴隷状態に縛られているということになるのです。このような状態から解放されるためには、その状態に陥っていることを認める必要があるのです。奴隷状態に陥っていると認めるとき、わたしたちは真理を知っているのです。真理とは隠れなくあることですから、隠れなくある真実の自分を知り、受け入れることで、わたしたちは自分が認めた奴隷状態から解放されるとイエスは教えてくださっています。

何事にも正面から向き合うことが必要で、逃げていては解決しないと言われます。ところが、逃げることも必要なわけで、向き合うとは言っても、向き合った相手を攻撃するならば、それは向き合っていることにはなりません。むしろ、向き合っていないのです。攻撃するということは否定することですから。そう考えてみると、わたしたちが自分自身の罪を認めるということは、向き合うことですが、攻撃しないことでもあります。向き合って、受け入れるということです。それが真理に従う姿だと言えます。逃げることも攻撃することもそれとは反対の姿なのです。闇に隠れることと同じです。向き合って、認めて、受け入れることが真理なのです。そのとき、向き合った罪をわたしが制御するのではありません。制御しようとすることも攻撃と同じだからです。制御ではなく、受け入れること。受け入れるということは、自分自身では制御できないことを認めることでもあるのです。そして、制御してくださるお方を求めることへと導かれる。これが、ルターが見出した福音に従った生き方なのです。

わたしたち人間は、何事でも自分で制御したい、制御できると思いがちです。ところが、制御できないと認めたとき、わたしたちは途方に暮れると思うので、途方に暮れないために何とか制御しようと躍起になります。そのとき、わたしは自分を捨てていないのです。共観福音書では、イエスは自分を捨て、自分の十字架を取って、わたしに従いなさいとおっしゃっています。ヨハネ福音書ではそのような言葉はありません。しかし、同じ信仰の姿が、「真理はあなたがたを自由にする」という言葉なのです。わたしが自分の力で自由になるのではありません。真理がわたしを自由にするのです。この真理とは、隠れなくあることと言いましたが、ヨハネ福音書ではイエス・キリストご自身のことです。「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と14章6節でイエスがおっしゃっています。イエスご自身が真理なのです。隠れなくあるお姿で、十字架に架けられ、復活したお方。終始隠れなくあるお方なので、人々から疎まれ、十字架で殺されてしまったお方です。そのお方が、神によって起こされた復活を通して、神ご自身がイエス・キリストを救い主として明らかにしてくださったのです。イエス・キリストを信じるということは、イエスと同じ道を歩むということです。それがイエスに従うことです。

イエスと同じ道は、十字架に架けられても真理である裸の自分を生きることです。裸の自分とは解放されたわたしです。何も縛り付けるものがない。何かを身にまとって、よく見せることもない。誰かを自分の支配下に縛り付ける必要もない。ただのわたしとして生きること。罪深く、何かに縛られて身動きできないでいるところから解放された姿です。この解放は、真理そのものであるイエスご自身を受け入れるとき、与えられるのです。このお方のように生きたいと願う心が起こされるとき、あなたはイエスの道に入っています。イエスの道に入って、真理であるイエスに従って歩いている。そして、いのちに至る。

マルティン・ルターという人は、何にも捕らわれることなく、聖書を読みました。教えられた教理に従った読み方しかできなかったルターが聖書博士となって聖書を講義することになったために、聖書を原文で読み、教えられた教理とは違うことに困惑するのです。それまで、ルターは神を厳しい裁きの神と思い、神の言葉を守らなければ救われないと教えられていました。それで、神の義、神の義しさは恐ろしい裁きの言葉だと思っていたのです。神に従わない者を裁くのが神の義、神の義しさだと思っていたのです。ところが詩編第31編2節の「あなたの義によってわたしを救ってください」という箇所に行き当たったのです。それまで神の怒り、裁き、罰と言った意味で神の義を理解していたルターには、この箇所が理解できませんでした。理解できないままに気になっていた言葉だったわけですが、講義が詩編71編にまで進むと再び「あなたの義によってわたしを救ってください」という言葉が現れたのです。ルターはここでようやく、「詩編の記者はここでキリストを明瞭に言い表している」と捉えたそうです。つまり、神の義というのはキリストのことだと理解したのです。すると、「あなたの義であるキリストによってわたしを救ってください」ということになります。つまり、救われようがない自分であることを受け入れたルターは、キリストにのみ救いを求めるところに至ったというわけです。こうして、自分の罪の状態を受け入れたルターは、今まで縛り付けられていた罪の奴隷状態から解放された、キリストの救いに基づいて解放されたということです。そこから聖書の読み方が変わったのです。

聖書は、あなたが罪人であると宣言します。それが真理です。わたしは罪人であり、罪を犯してしまう罪の奴隷であるということが真理です。この真理を受け入れるということは、断罪されることだと思うために、罪を犯していないと言い募ることにもなります。真理を拒否するのです。しかし、真理を受け入れた罪人は、自分では救われようのないことを受け入れていますので、救ってくださるお方に祈り求めることになります。それが「あなたの義によって、わたしを救ってください」という詩編の言葉なのです。真理を受け入れることによって、自分を縛り付けていた罪から解放されて自由を生きることになるのです。

自由にされた人は、罪を犯さないように生きるのですが、そのときキリストの力によって生きようとするのです。そこにおいて、わたしたちは真理であるキリストが与えてくださる自由をキリストと共に歩み始めるのです。「真理はあなたがたを自由にする」とおっしゃるキリストが裸のあなたと共に生きてくださる。この喜ばしい福音をあなたはいただいているのです。感謝して、キリストに祈りましょう。どうか、罪人のわたしと一つになってくださいと。

祈ります。

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