「それぞれの可能性に従って」

2023年11月19日(聖霊降臨後第25主日)
マタイによる福音書25章14節-30節

わたしたち人間には未だ現れていない可能性というものが備わっているものです。今は見えていないけれど、いつか見えてくるようになるものを可能性と言います。一般的には、可能性と言うと、そうなるかどうかは分からないけれど、もしかしたらそうなるかもしれないものと考えられています。誰にでも可能性はあると言う人もいますね。その場合、今は何者でもないけれども、いつの日か何者かになるはずだという希望を表しています。ところが、可能性というものは、アリストテレスが考えたところでは、現れたときに言われることでした。現れたときに、その人には可能性があったのだと言われるということです。ですから、可能性は現れないことには存在しないままなのです。現れたところから可能性があったと判断されるだけです。そうすると、現れてこない人には可能性は未だに可能性のまま眠っていることになります。そして、結局現れないかも知れない。そうなると、可能性は無かったということになるのです。

さて、今日のイエスのたとえの中では、このように言われています。「それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。」と。ここで「それぞれの力に応じて」と訳されている言葉は、「その人自身の可能性に従って」という意味です。だとすれば、主人は一人ひとりの可能性を知っていたということになります。主人はどのようにして知ったのでしょうか。主人の認知能力は優れているようです。未だ可能性のままなのに、それが現れることを知っていたのです。そして、可能性を発揮するであろう人には5タラントン、または2タラントンを渡した。可能性を発揮しないと思われる人には1タラントンを渡した、ということのように思えます。それで、評価されていないと思った1タラントンの人は、地面を掘って、1タラントンを隠したのです。主人はそうなることを見越していた。だとすれば、何のために僕たちにタラントンを預けたのでしょうか。力試しなのでしょうか。いえ、それはすでに分かっているのですから、試す必要などないのです。では、どうして。

1タラントンを預かった人の言い草を聞いてみましょう。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」と言っていますが、何もしなかったことの言い訳のように聞こえます。彼にとっては主人に預かったものを失わないことが至上命令だったと思えます。失ってしまっては何と言われるか分かったもんじゃない。だから、隠しておいて、失わないことが一番良いと考えたのでしょう。それに対して、主人は言います。「怠け者の悪い僕だ。」と。確かに、怠け者かも知れません。主人が言うように、銀行に預けておけば、せめて利息がついたでしょう。預かったものを生かすことなど考えなかったということで、「怠け者」と言われるのです。さて、このたとえを聞いて、わたしたちはどう思うでしょうか。

ところで、みなさんはご存知でしょうか。1タラントンというのは、6000日分の給与なのです。ということは、16年分以上の給与ということになります。今のお金で考えれば、500万円の年間給与がある人であれば、金額にすれば8000万円ということになります。途方もない金額ですね。普通の人では到底手にすることがないような金額なのです。そのような金額の1タラントンです。たとえ一番少ない1タラントンの人でも、何かしようと思えばすることができるでしょう。銀行に預けておけば、当時の利息から考えれば、すごい金額になったことだろうと思います。一番可能性が認められていない人でも、8000万円。その人は、普通の人よりも可能性があると思われたということでしょうね。ところが、その人は何もせず、地面の中に隠しておいたのです。それでは「怠け者」と言われても仕方が無い。主人は、その人がそうするであろうことを見越していたのでしょうか。おそらく、そうでしょうね。それで1タラントンにしたと思えます。ところが、その人には1タラントンの可能性はあったはずです。その可能性を使わなかった。それで可能性は可能性のまま、土の中に眠っていただけなのです。

使わなければ眠っているだけです。5タラントンの人や2タラントンの人は使ったのです。眠らせておかなかった。それで、その人たちは同じ額を獲得したと語っています。彼らは稼ごうとしたというよりも、預かったお金を使ったということです。使ったので、使っただけのものが増えたとも言えます。主人から預かったものを使えば、可能性として眠っていることなく、現実に現れるということです。このタラントンのたとえから、タレント、才能という言葉ができたと言われていますが、同じことですね。才能はあっても使わなければ現れないということです。

それぞれの可能性に従って預けたということは、少なくとも1タラントンの人にも1タラントンの可能性があることを主人は認めていたのです。一番少ないとは言え、認めていた。しかし、その人が使わないかもしれないことも分かっていたのでしょう。それが1タラントンの価値の可能性だということではありません。むしろ、1タラントンの人は可能性を使わないかも知れない人と思われていた。おそらく、彼は自分で言い訳しているように、主人からの信頼を信用していなかったのです。主人は、その人から自分が信頼されていないということも知っていたのでしょう。その人が銀行にも預けなかったということは、少しでも主人の儲けになることなどしたくなかったのかもしれませんね。厳しい主人だと言っていますから、今で言えばパワハラ主人だと思っていたかも知れません。そのように思われていることは主人も分かっていたでしょう。それでも、その人にも可能性があることも知っていた。彼が可能性を使うことを期待して、1タラントンを預けたのです。その主人の心を拒否したのがその人なのです。土の中に隠して、1タラントンを見ないようにした。彼の可能性を信じていないのは、主人ではなく、本人だったのです。

たとえ一番少ないとしても、8000万円の可能性があると信じていた主人。その主人の信頼を土の中に隠していた人。自分でも見ないようにしていた人。危険を冒して、失うよりも見ない方が良いと考えたその人は、主人の儲けになることを行わないことによって、自分自身の可能性も見ないようにした人なのです。

隠しておけば、傷もつかないだろうと考える。しかし、ただ古くなるだけです。もちろん、お金の価値は変わりませんから古くなっても良いでしょう。しかし、使われないままに隠されていたものは、彼の可能性そのものなのです。いつまでも隠していても何も起こりません。可能性は現れないのです。使わなければ現れないのです。その人が可能性を持っていたとしても、使わない人からは取り上げられてしまう。それがイエスのたとえが語っていることです。そして、10タラントン持っている人に与えられてしまう。使えば使うだけ与えられる。それが可能性なのです。

このイエスのたとえでは、主人が信頼して与えた可能性だと言えますが、これを信仰と呼ぶのです。信仰とは、神さまがあなたにすでにある可能性を見出しておられて、与えてくださる神さまへの信頼のことです。信仰の可能性を見出されている人は、預けられた信仰を使うのです。神さまが、あなたのうちにすでにあると認めてくださっている信仰の可能性がどのように働くのかを見せてくださるのが、キリストの十字架です。死からいのちへと現れる可能性がキリストの十字架を通してわたしたちに与えられる信仰なのです。ですから、信仰を与えられた者は怠けることがない。与えられた信仰に従って、働くのです。信仰があなたの背中を押して、動かしてくれるのです。土の中に埋めてしまう人は、神に信頼されていることを受け取らず、そんなはずはないと見ようとしない人なのです。もちろん、与えられはするけれども、神を信頼できないので、失ったら怒られると隠しておいて、終わりのときに「神さま、ここにあります」と差し出す人でしょう。そのとき、神さまはあなたに言います。「わたしはあなたに信仰を与えたのだ。わたしが与えた信仰はよく働く信仰だった。しかし、あなたは隠して、見ようとせず、使おうとしなかった。それゆえに、あなたから信仰は取り上げられ、他の人に与えられるのだ」と。

わたしたちは、与えられた神さまからの信頼に感謝して、信仰を生かし用いて生きていくのです。そのとき、わたしたちは神さまの信頼に誠実に応えている。たとえの中で言われている忠実という言葉は、信仰と同じ意味です。誠実、忠実、信仰は同じ言葉に属しています。神の言葉に忠実に従う人は、信仰を素直に生きている人です。その人は必ず、神からの信仰を生かし用いて、多くの実を結ぶのです。神からいただいた信仰によって、活き活きと生きていきましょう。祈ります。

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