「行わなかったという罪」

2023年11月26日(聖霊降臨後最終主日)
マタイによる福音書25章31節-46節

現在の礼拝式文において、開会の部では罪の告白が行われます。そこでは「思いとことばと行いとによって、多くの罪を犯しました。」と告白します。一方、試用版が配布されています新式文ではこのように変わっています。「わたしたちは思いと言葉、行いと怠り、また無関心によって、あなたから遠く離れ、御旨に背いてきました。今、ここに罪を告白します。」、つまり、行わなかったという罪も告白するのです。「怠り、また無関心」という罪を行っていると告白するのです。わたしたちは、このような罪を自覚しませんし、自覚しても「行っていない」のだから罪は犯していないと思うものです。今日、イエスが語ってくださるたとえではこの行わなかった罪が語られているのです。

わたしたちは、罪にしても善にしても行うことしか考えないものです。行うことだけが見えているので、行うことにおいて善と悪を考えるのです。しかし、行わないことにも善と悪があるのです。なすべきときにしなかったのですが、していないので気にも留めないということです。一方で、自分がしてあげたと言えることはいつまでも覚えています。自分がしてもらったことについてはすぐに忘れるのに、してあげたことばかり覚えている。人間というのは自分中心でしか世界を見ていないということです。そのような人間にとって善いことというのは自分にとっての善いことです。他者にとっての善いこと、あるいは社会にとっての善いことはあまり考えることがありません。まずわたしたちの頭に浮かんでくる善いことというのは、わたしが善いと判断できるわたしの目に見える事柄です。また、わたしが判断しますので、わたしにとっての善いことになってしまいます。社会にとっての善いことも、わたしが損をするならば善いこととは思えませんし、わたしにとって悪であるならばそれを選択することはありません。このようなわたしたち人間が本当に善いことを実行できるのでしょうか。

イエスのたとえの中では、裁きの座に座っている「あなた」に何もしなかったとは考えていない人が出てきます。それが山羊の側に分けられた人たちです。しかし、羊の側に分けられた人たちも「あなた」に何かをしたとは思ってもいないのです。ここが面白いところです。

山羊の側の人たちは、「あなた」だと知っていれば助けたでしょうにと答えているようです。彼らは「あなた」ではない人を助けても裁きの時に何の役にも立たないと思っているのかも知れません。羊の側の人たちは「あなた」を助けたわけではありませんとやはり自分が見えているところで答えているわけです。彼らは「あなた」だから助けたわけではなく、必要な時になすべきことをしただけだと考えています。その姿が裁き主の心に従った生き方だというわけです。必要なときに、必要とする人に、必要なことを行う。これだけのことなのに、そこに自分の役に立つことなのかどうかという判断が入り込むと、不純になってしまいます。不純というだけではなく、真実の行いではなくなってしまいます。それが律法主義ということにもなるのです。

わたしたちルーテル教会にとって重要な信仰的姿を信仰義認と言いますが、律法主義とは正反対の姿です。律法の行為を自分が善い人間だと認められるために行うことが律法主義です。信仰義認というのは、わたしは善い人間ではなく罪人で、神さまの意志に純粋に従うことができないということを認めるところから始まります。罪深い人間であることを認めて、そこから抜け出すことができない哀れな自分自身を認めて、キリストに救いを祈り求めるようにされた人が、信仰によって善い人間だと神さまに認めていただけるわけです。しかし、そこで終わるのではありません。そこから本当に神さまに従う道を歩み始めるようにされるのです。そのときには、なすべきことをなすべきときに行うことができるようにされる、神さまによって。自分のために役に立たないという考えなど持つことなく、自分の役に立つか立たないかとは関わりなく、必要な人に必要なことを必要なときに行う。キリストが共にいてくださるので、キリストがわたしの背中を押して、行わせてくださるということです。そのようにされている状態を信仰義認と呼ぶのです。それはまた、聖化と言われます。聖化というのは、神さまによって聖なる者、神さまのものとされていくことです。ですから、自分中心の考え方の世界から解放されて、律法主義などからも自由になった魂の姿を信仰義認と言うわけです。

そのようになることを求める人は、キリストが言うように、自分を捨てています。自分の都合を捨てています。自分にとって都合の良い世界を捨てています。もちろん、社会にとって善いことを行おうなどという気負いもありません。ただ、目の前の助けを必要としている人を助ける。それだけです。このとき、わたしたちはキリストに従っているのです。

イエスのたとえの中で、裁き主が「わたしにしてくれたこと」と言っていますが、小さな兄弟姉妹にしたことが裁き主にしたことと言われているのです。裁き主に対して行ったから善い人間ということのように思えます。裁き主に対して行わなかったから悪い人間と言われるのでしょうか。わたしたちの心のうちに記されている神の律法に動かされて行ったとき、神に対して行ったということになるのでしょうか。そのようです。神の意志に動かされる人は、神が望んでいるように生きていますので、神の意志と一つになっています。神と一つになった魂が行うことは、神に行っていることになるというわけです。面白い考え方です。どうして、そうなるのかは分かりません。しかし、イエスはそうおっしゃっています。おそらく、裁き主に見せようとして行ったわけではないので、裁き主に対して行ったと言われているのです。なぜかと言えば、見せようとして行うということは裁き主に対して行うことのように思えますが、実は自分に対して行っていることだからです。自分を良く見せようという自分の都合に対して行っているということです。ところが、裁き主の意志に従って行うということは裁き主に対して行うことになるのです。もちろん、それが裁き主に見せようとしての行いにはならないからこそ、裁き主の意志と一つになっているという意味でではありますが。この場合、誰かに見せようとすることもありません。イエスが山上の説教の中でおっしゃっている言葉がありますが、「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」と。「そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」とイエスはおっしゃっています。そこでは、他人に見せるために行うなと言われていたのですが、今日のたとえでは自分にも知らせるなということのようです。羊の側の人たちは、自分も知らなかったのです、裁き主の意志に従っていることを。つまり、彼らは善いことだから行おうということも考えていないのです。必要だから行っただけ。それだけだったのです。

わたしたちも、善いことだから行おうと考えて行動することはありません。自分の心の奥にある真実だと思えることに反することはできないと考えることはありますが、これは善いことだから行おうということはないですよね。必要だから行おう。求めている人がいるから行おう。助ける場合にも、助けを求めているのだから助けようとするものです。しかし、そこでこの人は嫌いだから助けないというような心も起こってきます。そのときには、自分の意志に従っているのです。この人は敵だから助けないということになれば、なおさらです。

わたしたちは、自分の奥にある神さまが造ってくださった真実な心に従っているのかどうか。真実な心を覆っている人間的な自分中心の判断に従っているのか。これをよくよく注意しておかなければなりません。わたしたち人間は不完全な存在だと言う人がいますが、確かにわたしたちは完全にキリスト者になり切ってはいません。わたしたちを不完全な者にしているのは原罪、罪です。神さまがわたしたちを造られたとき、神さまは「極めて良い」とおっしゃったのです。そのわたしたちが原罪に導かれたために、罪を犯すようになってしまったのです。元々、極めて良いものとして神さまはわたしを造ってくださった。それを壊したのはわたしたち人間です。壊したというよりも、神さまに造られた姿を覆って、見えなくしてしまったのがわたしたちの罪なのです。この罪が取り除かれることによって、わたしたちは神さまに造られたままの極めて良い姿を生きることができるということです。わたしたちが禁じられた木の実を食べてしまったのは、わたしにとって都合の良いことが起こると考えたからです。何も考えずに、神さまの意志に従っていたときには極めて良く生きていたのに、自分の都合で生きるようになってしまった。他人に評価されるように生きるようになってしまった。他人を蹴落とすように生きることになってしまった。それがわたしたちの罪の姿です。そこから解放してくださるために、キリストは十字架を負ってくださったのです。このお方がわたしたちを罪の覆いから解き放ち、自由を与えてくださったのです。このお方のご意志に従って生きる人は、他人の評価を気にせず、なすべきことを必要なときに必要な相手に行う者とされます。あなたは信仰によって義とされたキリスト者。正しいことを行うことができるようにされたキリスト者。キリストの十字架の力で生かされている者として、キリストに従って生きて行きましょう。

祈ります。

Comments are closed.