「苦難が教える時」

2023年12月3日(待降節第1主日)
マルコによる福音書13章24節-37節

今日もまたイエスは「目覚めていなさい」とおっしゃっています。教会暦の終わりのときに同じようにおっしゃっていましたが、教会暦が新しく始まる今日も「目覚めていなさい」とおっしゃる。この言葉が語られているときはどのような時かと言えば、人の子が来るときです。人の子が再びやって来る再臨のときはいつなのか分からないのだから「目覚めていなさい」とイエスはおっしゃるわけです。しかし、待降節という教会の暦の始まりに、どうして再臨の話になるのでしょうか。待降節も再臨も、天から来てくださるお方を迎えるときだからです。神さまの許からわたしたちの地上へと降ってくださるお方がイエス・キリストです。このお方の誕生と昇天なさった後の再臨とは降るということにおいて同じなのです。しかし、誕生と再臨には違いがあります。誕生は、救いのために降ることです。これを降誕と言います。十字架と復活の後に天に昇られたイエスが再び地上に降ってくださることが再臨ですが、そのときは裁きの時です。つまり、救いのために降ったイエスは再臨において裁くために降るのです。ところが、イエスご自身はヨハネ福音書ではご自分では裁かないとおっしゃっています。イエスが語った言葉を受け入れるか、受け入れないかによって、それぞれに裁かれるとおっしゃっています。ということは、人間の方が自分自身で受け取る者と受け取らない者に分かれてしまうということです。ヨハネ福音書では、それが裁きだと述べられています。一方で、共観福音書、マタイ、マルコ、ルカにおいては、再臨のとき人の子は裁くために降ると言われています。それでも、今日のマルコによる福音書にはこう書かれています。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と。やはり、イエスの言葉が重要な裁きの担い手なのです。

イエスの言葉が「決して滅びない」言葉であるということは、その言葉をわたしが自分自身のいのちの根幹にしているならば、決して滅びない言葉と共に生きているので、わたしも滅びないということになります。わたしたちがイエスの言葉だけにぴったりくっついて生きているならば、わたしたちは滅びることはないのです。それでも、不安になることが起こる。そのときに、どのように考えるべきか、どのように世界を見るべきかを今日イエスは教えてくださっています。

24節から25節で述べられているさまざまな現象があります。これらの現象をあなたがたが見るときには、人の子が戸口にまで近づいていると認識しなさいとイエスはおっしゃっています。そのさまざまな現象のことをイエスは苦難だとおっしゃっています。苦しいことがあなたがたを襲うという意味です。苦しいことに襲われたときには、人の子が戸口に近づいていると教えてくださっていますが、わたしたちが苦難と考えることは、自分の計画が上手く行かず、誰かに陥れられて、社会から追放されるようなことですね。自分の地位を追われることや財産を奪われてしまうことなどが起こると苦難だと思います。また、現代ではSNSで誹謗中傷されて、精神的に苦しくなるということも起こります。そのときもわたしたちは苦難だと感じます。つまり、それまで普通に生きていることができていたところから、追い出されてしまうことですね。それが恐ろしいので、精神的にも苦しくなって、自殺する人も出てきます。そのようなことを苦難だとわたしたちは認識します。それは、わたしたちが思ってもいないような困難が生じるときにそう思うのです。しかし、それはわたし個人のことであって、社会は何事もなく過ぎていくということがあるわけで、その社会から取り残された者としてどこにも行き場がないので、苦しむのです。このような事態が起こったとき、わたしたちは苦難だと思います。

確かに、イエスが最初におっしゃっている「このような苦難」というのは、24節よりも前に語られていた戦争などに際して一人ひとりが置かれてしまう苦難のことです。しかし、そのような苦しみの後に起こる天体の現象が今日最初に語られている事柄です。そのような現象が起こるというのは、実際に天体が落ちてくるということではなく、一人ひとりの苦しみの中で、天体が落ちてくるような精神状態になることを指しているとも言えるでしょう。つまり、わたしたちが苦しめられるとき、太陽は暗くなっています。月もわたしに優しい光を差してくれることはない。星が空から落ちてしまうように思える。天体が揺れ動いているかのように見える。そして、この世の終わりだと思ってしまう。このような精神状態に置かれることが、わたしたち一人ひとりにもあるのです。

ところが、そのようなことが起こるのをあなたがたが見たならば、人の子が戸口に近づいていると認識しなさいとイエスは言うのです。それは、天の裁きが近づいているという意味です。天の裁きは、この世の裁きとは違って、義しい裁きです。人間の法律に従った裁きではなく、神の意志に従った裁きなのです。イエスは、義しい裁きを行う人の子があなたの戸口に近づいていると言うのです。それは、あなたを義しく裁くお方、つまりみことばそのものが戸を叩いているとも言えます。それでイエスは言うのです。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と。わたしの言葉をしっかり自分のうちに持っていなさい。そうすれば、あなたは滅びることはないのだとイエスは力づけてくださっているのです。

そして、「目覚めていなさい」とおっしゃる。33節で言われている「目覚めていなさい」の前に、「気をつけて」という言葉が語られています。この言葉は普通には「見る」と訳される言葉ですが、実は「その方向を見る」という意味の言葉です。「注意する」という意味でもありますが、語源的には「一瞥する」ことで、特に注意して見るとか、凝視することを意味してはいません。その言葉が、「目覚めていなさい」という言葉と一緒に使われていますので、「ちらっと見る」わけではなくて、「目を向けなさい」という意味になるわけです。目を向ける方向がどこであるかと言えば、31節で語られている「わたしの言葉」の方に目を向けるということでしょう。

人の子が裁くために地上に降って来るときというのは、終わりの日、終末のときだと思ってしまいますが、実はわたしたちが被る苦難のときに人の子が降ってくるとも言えます。そのとき、わたしたちキリスト者が人の子イエス・キリストの言葉に目を向けて、目覚めて、イエスの言葉に留まることをイエスは求めておられるのです。イエスの言葉に留まるならば、あなたは揺り動かされることはなく、あなたの精神的苦しみからも解放されるであろうということです。

わたしたちには、この地上で苦しいことが起こります。誰かに訴えられるとか、誹謗中傷を受けるといったことも起こります。あなたを責めて苦しめて排除しようとする人もいるわけです。しかし、わたしの言葉はあなたがたのそばを通り過ぎてしまうことはないとイエスはおっしゃるのです。通り過ぎないということは、あなたと共にあるということです。イエスの言葉がわたしと共にあるとき、わたしたちは力をいただくことができます。慰めだけではなく、イエスのまっすぐないのちをいただくことができます。そして、十字架と復活の力をいただくことができます。十字架の言葉はわたしたち救われる者には神の力ですと使徒パウロも語っている通りです。

あなたが苦しいときにこそ、主はみことばの中であなたと共にいてくださいます。あなたが悲しむとき、主はみことばをもってあなたを慰めてくださる。あなたが義に飢え渇くとき、イエスの言葉が真実であることが分かる。イエスのみことばにしがみついている限り、あなたは決して滅びることはない。

待降節に降ってくださる主は、みことばが肉となる出来事として、幼子イエスとして生まれてくださいます。幼子のうちに生きている神の言葉、神の意志を喜び迎える人の中に、幼子であるみことばが宿ってくださる。イエスの言葉は、あなたのうちに宿るために、地上に降ってくださるのです。それが待降節のときに天から降る人の子として語られています。

みことばを聞く耳を開かれ、受け入れるようにされているあなたは、決して滅びることはありません。みことばが滅びない以上、みことばにしがみついているあなたも滅びることはありません。天地は過ぎ行くもの。しかし、イエスの言葉は過ぎ行くことはありません。過ぎ行くことなく、あなたのうちに生きて働いてくださる。力強い神の言葉があなたを生かしてくださる。苦しみの中にあっても、あなたは揺り動かされることなく、自分自身のいのちを喜ぶことができる。そのような存在として生きていくために、あなたには信仰が与えられたのです。その信仰によって、あなたは神の言葉にくっついて生きることができるのです。

今日聖餐を通して、神の言葉があなたのうちに宿る。聖餐の言葉を素直に受け取り、聖餐の言葉に従って、パンとぶどう酒をいただくあなたのうちに、主イエスは宿ってくださいます。この地上の苦しみの中に主が生まれてくださるクリスマスを待ち望みながら、一日一日をみことばだけを信じて歩み続けましょう。祈ります。

Comments are closed.