「沈黙の声が聞こえる」

2023年12月10日(降誕後第2主日)
マルコによる福音書1章1節-8節

多くの人に聞いてもらいたいと思えば、人がたくさんいるところに出かけていくものです。しかし、洗礼者ヨハネは誰もいない荒野にいて、彼の許に多くの人たちがやってきたと述べられています。逆ですね。多くの人に聞いてもらいたいのに、誰もいない荒野で洗礼者ヨハネは宣教したのです。聖書においては、わたしたちが考える宣教の形とは違うことが行われているのです。そして、多くの人が聞いているのです。

今日引用されているのは40章ですが、イザヤが神を見て、宣教に派遣される6章ではこう言われています。「主は言われた。『行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。』」と。理解させるために語るのではないのかと思うのですが、理解させないようにすること、聞かないようにすることがイザヤが語るべき言葉だと言われています。これはどう考えれば良いのでしょうか。

わたしたちは理解しやすいように噛み砕いて話すべきだと教えられます。理解しないように話せと言われることはありません。また、聞かないように話せと言われることもありません。本当のことを語っても人は聞かないから、オブラートに包んで話すようにと言われます。しかし、イザヤは神から反対のことを言われたのです。同じように、洗礼者ヨハネも誰もいないところで宣教を始めたということは世間とは反対のことをやったわけです。そこに多くの人がやって来た。逆転した方法が良いのかもしれないと思うでしょう。しかし、これは方法論ではないのです。宣教は神が行われることであって、わたしたち人間が人を集めることではないということです。さらに言えば、誰も聞きたくないような言葉を語るがゆえに、イザヤの言葉は理解されないのです。誰も見たくない現実を示す言葉であるがゆえに、イザヤの言葉が語る現実を見ないということです。洗礼者ヨハネの言葉も同じでしょう。

荒野で主の道を整えよと叫んでも誰も聞きません。荒野は道がないのです。人が通らないからです。そのようなところで主の道を整えよと叫んだところで、どこに道があると思うでしょう。ということは、一人ひとりの心の道を整えるようにとヨハネは宣教したのだと言えます。目に見える道ではなく、見えない道を整えることだった。しかし、そこにやって来た人たちが大勢いたと報告されています。どうしてでしょうか。神がその人たちを呼んだからです。洗礼者ヨハネは荒野に独り入って、神と対話していた。そこに人々はやってきた。それは彼らが真実の言葉を聞きたいと願ったからでしょう。その真実の言葉とは悔い改めを勧める言葉だったのです。一人ひとりの心の道を整えることとは、悔い改めること、生きる方向を変えること、向きを変えることだったのです。

洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を宣教しているということは噂になっていたことでしょう。しかし、好き好んで悔い改める人はいません。普通に考えれば、耳の痛い言葉を聞きたくないので、自分から来る人もいないでしょう。ところが、やって来た。だとすれば、彼らは悔い改めるために来たのです。悔い改めの言葉を聞くために来たのです。彼らがそのように導かれたのは、洗礼者ヨハネの弟子たちが町に入っていって、ヨハネが悔い改めを宣教していますから荒野に来てくださいと伝えて回ったからでしょうか。違います。弟子たちもヨハネの許で悔い改めの洗礼を受けて、生き方を変えようと生きていたのです。そのような人の集団が生まれていることは噂になったかもしれません。それでも、誰もが好き好んで悔い改めるわけではないのです。悔い改めようという思いにされた人たちが荒野のヨハネの許へとやってきた。彼らが悔い改めようと思ったとすれば、彼ら自身がすでに神の声を聞いていたと言えます。どこで聞いていたのでしょうか。彼らの日常の中で聞いていたのです。

わたしたちが教会に行こうと思ったとき、どのようだったでしょうか。思い出してみてください。わたしたちは、自分が生きている日常や社会に辟易していたのではないでしょうか。また、自分自身の生き方はこれで良いのだろうかと考えていたのではないでしょうか。社会では聞くことができない言葉を聞きたいと思っていたのではないでしょうか。自分の生き方、自分の人生から、人間とは何なのかを考えていたのではないでしょうか。そのような思いに導かれて、教会に足を運んでみた。または、教会に行けば、何か新しいことに出会えるかも知れないと思った方もいるかもしれません。その当時は、教会が持っていた文化が珍しかった時代だったかもしれません。しかし、それだけではキリスト者として残ることはなかった。みなさん一人ひとりの中に、生きる意味を見出したいという思いや、自分のいのちだけを守ろうとする社会や周りの考え方に疑問を感じていたということがあったはずです。一人ひとりの中に、今のままではいけないという思いがあったのです。荒野のヨハネの許にやって来た人たちと同じく、社会とは違う世界、違う考え方の中で何かを聞きたいと思っていたでしょう。それが悔い改めであろうとも、平安だとうそぶいている社会の上層部の人たちのうそに辟易していたのです。真実を生きていくために、新しく生き直したいと人々は荒野へとやってきた。彼らはすでに神の声を聞いていた。沈黙の声を聞いていたのです。

彼らのうちに行き交うさまざまな声、自分を守ろうとする声が沈黙の声に遮られる。それはどういうことでしょうか。沈黙の声は、彼らの苦難の中に響いているのです。使徒パウロがローマの信徒への手紙1章20節、21節で言うように、「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」ということです。世界には神の声、沈黙の声が現れ、響いているということです。その声を実は聞いているのに、自分の思いの中で神の声を消すほどに多くの人間の声が聞こえているということです。洗礼者ヨハネの許にやって来た人たちは、多くの声、自分や他人の声の狭間で、突然に沈黙の声を聞いたということでしょう。そして、その声に導かれて、荒野へとやって来たのです。

荒野へと導く声が神の沈黙の声です。わたしたちの日常にも響いている声です。その声に促されて、神の言葉を聞く場所へと導かれていく。そのような人たちは、心の奥で、人間の声にうんざりしているのです。人間の声ばかりが響いている世界にうんざりしている。一人ひとりの本当の心へと導いてくださるのが神の沈黙の声です。人々は、その声に促されて、荒野へと向かうことになった。

誰にも、沈黙の声は聞こえています。しかし、人間の声で神の声を塞いでしまう。人間の価値で神の価値を覆ってしまう。本来は、神の価値があって人間の価値があるのに、人間の価値だけで事足りると思っているのが、わたしたちなのです。背後にある声は、表に聞こえる声ではありません。表に聞こえる声に縛られているわたしたちが背後にある沈黙の声を聞くとすれば、どのようなときなのでしょうか。わたしたちが人間の声によって自分の居場所を奪われているときでしょう。あるいは、自分が立っていると思っていた地面が崩れ去るような気持ちになっているときでしょう。自分の場所がないと思うような人たちが、洗礼者ヨハネの許にやって来た。自らの罪を指摘する神の言葉、神の声を聞くためにやって来た。その言葉こそが、彼らを支える言葉なのです。彼らを真実に生かす言葉なのです。

わたしたちが求める優しい言葉、慰めの言葉は、「あなたはそのままで良いのだ」と告げます。預言者イザヤは、人々が求める言葉はこのような言葉だと語っています。「彼らは先見者に向かって、『見るな』と言い、預言者に向かって『真実を我々に預言するな。滑らかな言葉を語り、惑わすことを預言せよ。』と言う。」と。しかし、人間の奥底にある心は真実を求めています。神の目から見た真実の自分を見せてくれる言葉を求めています。そこにこそ真実の平安があり、慰めがあるからです。洗礼者ヨハネの許へとやって来た人たちは、そのような沈黙の声を聞いていた。そして、荒野で、沈黙の声をヨハネから聞きたいと願って、やって来た。この声を聞いて、悔い改めに至るかどうかは、その人自身の力ではないことも洗礼者ヨハネは語っています。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。」と。

人間が自分の力で悔い改めることができるわけではありません。自分が悔い改めたと思い込んでいる人間は、悔い改めたと思った時点ですべてが良くなったと勘違いします。悔い改めは、ルターが言うように、生涯悔い改めであるように生きることを意味しています。そのような生き方へと導き、完成へと導いてくださるのは、主イエス・キリストだけです。このお方の許へと導くために、ヨハネは水で洗礼を施していると言っています。イエス・キリストの洗礼は、聖霊の中に沈めることだとヨハネは言います。それは水に沈めるような目に見える洗礼ではありません。見えない洗礼です。沈黙の声と同じく、見えない、聞こえないもの。その世界へと導くために、洗礼者ヨハネは神によって派遣されたのです。

待降節のこのとき、わたしたちは洗礼者ヨハネに導かれて、真実の悔い改めへと導いてくださるお方イエス・キリストの許へと、沈黙の声へと歩みを進めていきたいと思います。クリスマスに生まれてくださるお方が沈黙の声。その声が聞こえる場所は、あなたの心の奥底にある飼い葉桶です。あなたの心の飼い葉桶に御子が生まれてくださるクリスマスを待ち望みながら、一日一日を悔い改めつつ歩み続けましょう。

祈ります。

Comments are closed.