「見えないものを見せる光」

2023年12月17日(降誕後第3主日)
ヨハネによる福音書1章6節-8節、19節-28節

わたしたちの知らない人がわたしたちが集まっているところに入って来ると「だれかなこの人」と思いますね。そこからその人を知ることが始まります。知らないから知ろうとする。知らないことがあるから向き合うことも起こる。しかし、知っているつもりになっている場合は、すでにわたしが決めてしまっているその人のイメージを崩すのはとても難しいものです。前もってイメージを持っていても知らないというところに立ち直すならば、それまでのイメージを塗り替えることができるのかと言えば、できないでしょう。すでにわたしの中に固定しているイメージは変えることができないのです。そのような意味では、洗礼者ヨハネが言う「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」という言葉が語っているのは、前もっては何もイメージを持っていないということです。イメージがないのでヨハネはこう言うのです。「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」と。つまり、ヨハネのことは皆が良く知っているけれども、ヨハネの後から来られる方はヨハネとはまったく違う方なのだということです。ヨハネが行っていることを同じようにやってくださるお方ではないということでもあります。ヨハネは、わたしのイメージを重ねることなく新たなお方として受け入れるようにと人々に勧めているのです。

新たなお方を受け入れるということは、真っ白な状態で受け入れることです。しかし、当時の社会でメシアを待ち望んでいた人たちには、救い主はこのようなお方であるという一般的なイメージがありました。そのイメージにイエスが合うのかどうかということを人々が考えるであろうことを見越して、ヨハネは「あなたがたは知ってしまっていない」と言うのです。それでも、人々は自分のイメージを持って、その方を迎えるでしょう。知ってしまっていないとは言っても、自分のイメージと合わないということになれば、拒否することにもなります。そのようなことになるとすれば、結局自分が持っているイメージでイエスを判断することになるわけです。さらに、イメージに合わないイエスの言葉には耳を傾けないということにもなります。

イエスのイメージについて、わたしたちはそれぞれの救われた時点で与えられたものを持っています。しかし、イエスさまはこんなお方だというイメージは、イエスさまと共に歩む中で変えられ、新たにされていくものです。一度持ったイメージにこだわっていると、本当のイエスさまを受け入れることができなくなります。それは、わたしが受け入れたいイエスさまだけを入れてあげるというようなものです。わたしが主であって、イエスさまはわたしの従属物になってしまいます。そのような意味で、洗礼者ヨハネは常に真っ白な状態でイエスに向かうことを勧めていると言えるでしょう。

洗礼者ヨハネについては「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」と8節で述べられています。イエスは光であるということです。その方はあなたがたの知らない光であるとヨハネは言っているわけです。知らない光とは、知っている光と何が違うのでしょうか。今日の日課の少し前の4節ではこう言われています。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と。イエスは言葉ロゴスであり、その言葉のうちにいのちがあったと言われ、そのいのちは光だと言われています。「人間を照らす光」と訳されているのですが、原文では「人間の光」となっています。その光は人間のための光、人間を導く光なのです。それがいのちと言われているのですから、人間のために輝いて、人間を生かす光だということです。しかし、その光を人間は知らないとヨハネは言っています。知らない光が人間の光として、人間の許にやって来るのです。しかも、その光は人間の外にあって導くというよりも、人間のうちにあって導くようです。人間が内なる光によって自分自身を照らされて、歩むべき道を歩むように導かれるのです。これはどういうことでしょうか。

ヨハネによる福音書では、自分のうちに光を持っているならば、夜であろうとも躓くことがないと言われています。その人は、昼間だから見えるのではなく、夜だから見えないのでもないということです。いつであろうとも迷うことも躓くこともなく生きていくことができるということです。内なる光を持っているということは、外側の目で確認できるものではなく、見えないものを確認する光を持っているということです。その光に導かれることによって、わたしたちは与えられたいのちをまっすぐに生きることができるのです。

わたしたちが生かされているいのちは光のうちにある。光によって導かれ生かされている。しかし、わたしたちは自分のいのちを生かしているのが光だとは思っていないのです。ヨハネが言うように「知らない」のです。しかも、いのちの根源を光として知らないということは、闇の中にいるということです。わたしのうちに光がいのちとして働いているのに、闇の中を歩いている。光がわたしを包んで守り生かしてくださっているのに、わたしが見えるところだけを確認して生きていると思っている。だとすれば、わたしたちはいのちを素直に受け取っていないし、いのちをありのままに生きてはいないということです。それが闇なのです。

わたしたちのいのちは現れているものでも見えているものでもないのです。見えているところしか見ようとしないことが闇の中にいるということです。また、わたしの内なる光は、目に見える光ではないのです。わたしの目に入ってくる光は、この世の現実では目で見る世界を見せてくれます。しかし、目に入ってくる光ではなく、内なる光は目で見る世界を見せてくれる光ではないのです。見えない世界を見せてくれる光が内なる光なのです。いのちもまた見えないのです。見えないいのちが本当のいのちです。わたしたちが見ていると思っているいのちは見えないいのちの見える部分だけです。見えない部分はもっと深い、もっと広い。そのようないのちをわたしたちは与えられています。しかし、生まれながらに原罪を負った人間は、内なる光を失っているので、見えるものだけが世界だと思い込んでいます。しかし、見えない世界がなければ、見える世界はないのです。この見えない世界を見るための光がイエス・キリストです。

わたしたちが肉眼で見るためには光が必要です。同じように内なる目で見えない世界を見るためには見えない光が必要なのです。その光がイエス・キリストだということです。イエス・キリストはどのようにわたしたちの内なる光として働いてくださるのでしょうか。

わたしが自分のうちで考えていることは、自分の考えでしかありません。わたしたちは、自分の願いが実現するように考えるものです。自分の願いを妨げるものについては、見ようとしないものです。つまり、自分が見たいものしか見ていないということです。そのようなわたしが自分の見たくないものを見るようにしてくださるのが内なる光、イエス・キリストです。

わたしたちが見たくないもの、認めたくないものを見るようにしてくださるということは、わたしたちが拒否したくなるようなものを受け入れるようにしてくださるということです。わたしたちが外界の物を見る場合にも、同じようなことが起こっています。見たくないものは受け入れないものです。見たいものには焦点を当てますが、見たくないものには焦点を当てない。そして、見なかったことにする。わたしたちの視覚というものも、わたしの都合によって受け入れるか否かを決めているものです。それは、わたしの精神、わたしの魂が受け入れたくないものに対しては、肉眼に入って来る光を受け入れないようになってしまうということです。このように、わたしたちは肉眼さえも、内なる思いに左右されているのです。目に見えないものはなおさらでしょう。見えない世界を受け入れるために、イエス・キリストという光がわたしのうちに輝いてくださる。そして、神の世界を見えるようにしてくださる。それが光であり、いのちであるということです。

イエス・キリストは、わたしが見たくないものを見せてくださる光であり、わたしが生きたくないいのちを生きるように促してくださるいのちなのです。見たくない、生きたくないと思っているいのちこそが神があなたに与えてくださった真実ないのち、失われないあなた自身なのです。

今日共にいただく聖餐は、光であるイエス・キリストご自身をわたしたちに与えてくださる神の働きです。あなたのありのままの姿が、罪によって隠されていることを見せてくださる光。イエス・キリストがあなたのうちに入って来てくださる出来事。わたしたちはただアーメンと受け入れる。それだけで、あなたは神の子イエス・キリストと一つにされて、真実のいのちを喜び生きることができるのです。この恵み深い贈り物をいただいて、イエスがわたしの飼い葉桶で輝いてくださるように祈りつつ、聖餐に与りましょう。

祈ります。

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