「施されてしまっている恵み」

2023年12月24日(待降節第4主日)
ルカによる福音書1章26節-38節

「喜べ」と言われても喜べる状態になければ、わたしたちは喜びません。「そう言われてもねえ」と思ってしまいます。マリアもいきなり天使が現れて「喜べ」と言われました。「何なのいったい」と思ったでしょう。続けて天使は言います。「恵まれてしまっている者」と。「喜べ、恵まれてしまっている者」と言われたマリア。新共同訳は「おめでとう、恵まれた方」と訳していますが、天使は完了形で語っています、「恵まれてしまっている者」と。つまり、「恵みの施しは完了してしまっているのだ、あなたに」と天使は語ったのです。いきなりな言葉に、戸惑うマリア。そのマリアに、さらに天使は言います。「恐れるな、マリア」と。マリアの名前を呼ぶのです。「マリア、あなたのことだよ」という意味です。

「喜べ」、「恐れるな」と言われたマリアは何も恐れていないのに、あなたが突然現れるからびっくりしただけなんだけどと、思ったかも知れません。しかし、天使はマリアが内に持っている恐れを知っていたのです。その恐れは、マリア自身も知らない恐れ。この時点では、マリアには何も分かっていないのに、何か心の奥で恐れているというような恐れです。このようなことはわたしたちにもあります。何も起こっていないのだけれど、虫の知らせかなあと思うことがあります。マリアの内なる魂が感じ取っている恐れを天使は知っていて「恐れるな」と言ったのです。

天使が語る言葉を聞いて、マリアは内なる恐れが何であったかを知ります。ヨセフと婚約はしているけれど、妊娠しているなんてそんなはずはない。でも、彼女の胎にすでに宿っていたのです、イエスが。マリアが気づかずに抱いていた恐れは、彼女の体の変化だったのかも知れません。何かがわたしの中で起こっているとマリアは感じていたのでしょう。そして、何か良くないことが起こるのではないかと恐れを持っていた。そのマリアの奥底にある心の変化を天使は知っていた。それで、「恐れるな」とマリアに告げたのです。マリアは自分の体の変化に対して、どうしたのだろうかと思っていたことでしょう。その変化について、「恵みを施されてしまっている」ということなのだと天使は告げたわけです。つまり、神さまがあなたにすでに恵みを施してしまっているので、あなたが内に感じている恐れは、実は喜びであり、恵みなのだと教えてくれたのです。「喜べ、恵まれてしまっている者」と。

わたしたちが感じる恐れは、実は神の恵みの働きなのだということです。わたしたちが恐れることは、自分の内なる変化でしょう。わたしの中で何かが起こっている感じがするというとき、わたしたちは良くないことが起こっていると感じて、恐れるものです。しかし、マリアが感じている変化は恐れるようなことではなく、恵みなのだと天使は告げたわけです。わたしたちが恐れを感じるとき、良くないことが起こっていると感じるとき、病気になったのかと恐れることもあります。しかし、病気であろうと、それも神の恵みなのです。でも、わたしたちはそう言えるでしょうか。病気になったら困ると思います。ところが、使徒パウロが言うように「苦難をも恵まれている」ということがあるのです。苦難と思えることも神の恵みなのだとパウロは語っているのです。マリアへの天使の言葉も同じでしょう。

マリアの胎に宿ったいのちがある。普通に結婚している状態であれば恵みだと思えます。しかし、マリアとヨセフは婚約しているだけでした。そのようなマリアの胎にいのちが宿るとすれば、マリアが不倫を働いたと思われても仕方がない。それが恐れとなって、マリアの奥深くにうごめいていた。その恐れは、実はマリア自身が感じ取っていた自分の体の変化が原因だった。その変化を恵みと受け止めるのは困難です。困ったことが起こったとしか言えません。だからこそ、マリアが感じ取っていた恐れについて、神さまは天使を遣わして「恐れるな」とおっしゃるのです。これから、マリアは困難な状態に置かれる。困ったことになる。しかし、それはいずれにしても神の恵みなのだというわけです。マリアの困難、苦難は、パウロと同じように神が働いておられる証拠なのです。そのような苦難の恵みこそが信仰を呼び覚ます神の恵みなのです。

わたしたちが恵みと呼ぶのは、自分にとって良いことであり、わたしの環境を良い方に導くものでしょう。良い方向に向かうことが恵みだとわたしたちは思っています。ところが、神の恵みは苦難に導かれることの中にある。苦難を恵みとして与えられることで、真実に恵みとは何かを受け取ることができる。それこそが神の恵みでしょう。

ヨハネによる福音書において、生まれながらに目が見えない人について、イエスがこうおっしゃっています。「神の働きたちが、彼のうちで明らかにされるため」であると。つまり、生まれながらに目が見えないということによって、神の働きが彼の内で彼自身に明らかになるということが起こるのだと、イエスはおっしゃっているのです。このマリアにとっても、マリアの内でマリア自身に神の恵みが明らかになるために、マリアにとっての苦難、困ったことが神によって起こされた。マリアの信仰が起こされるために神が働いておられる。それが「恵みを施されてしまっている者」と天使がマリアに告げる意味なのです。

そのような天使の言葉に対して、マリアは率直に自分の不安を投げかけています。ヨセフとはまだ結婚していないし、関係も持っていないのに、そんなことが起こるとは思えないと。しかし、天使は言います。「高きところの可能とする力があなたの上にテントを張る」と。それは、マリアが聖霊の力によって、神の恵みを見出すのだと言っているのです。マリアの魂が高きところに引き上げられ、高き神によって知らされる恵みを受け取るのだという意味です。マリアは、今地上の低き考えの中で自分の体の変化を感じ取っている。しかし、聖霊が彼女を包むとき、マリアの魂は高き天に引き上げられて、神の許にある恵みを見ることができるということです。そうなったときには、マリアは自分に起こった出来事が神の恵みであると受け入れることができるのです。

わたしたちにも苦難や困難は起こります。引き受けたくないと拒否したくなることも起こります。それでも、その苦難や困難を引き受けるように導かれる人は、苦難の恵みを受け取ることができるのです。自分の力では受け取ることができないとしても、神の霊によって受け取るようにされる。そのような状態に置かれることこそが神の恵みです。そして、わたしたちが苦難をも恵まれているのだというところに立たされるとき、わたしの内なる恐れは喜びに変えられていくのです。このように働いてくださるのが聖なる霊。マリアの上にテントを張る聖霊。この聖霊は誰にでもテントを張ってくれるのでしょうか。

誰にでもというわけではありません。マリアのように「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と応じる魂に生じるのです。この言葉は原文ではこうなっています。「御覧ください、主の奴隷。わたしに生じますように、あなたの語られた言葉に従って」と。「御覧ください」とマリアは言うのです。このわたしを御覧ください。わたしは主の奴隷として生きています。主がわたしを僕として用いてくださることを感謝します。主の僕ですから、主が語られた言葉の通りにわたしにはすべてのことが生じるのです。そうマリアは答えているのです。

このような従順な信仰がマリアにあったから、マリアは苦難を恵みとして与えられたのでしょうか。確かに、そのような面がマリアにあったのです。しかし、それはマリア自身が持っていたというよりも、マリアがそのように造られていたということです。なぜなら、天使の言葉を神の言葉として受け入れる状態にあるということは、すでにそうでなければあり得ないからです。ということは、マリアの信仰が素晴らしかったからではなく、マリアが与えられた信仰を幼い頃から素直に受け入れて鍛錬していたからです。信仰は与えられるもの。しかし、与えられた信仰を鍛錬しなければその信仰はよく働くことがないのです。与えられた信仰に従って、マリアは誠実に自分自身を省みながら、鍛錬していたのです。素直に主に従う信仰を育んでいたのです。わたしの内から信仰が生まれることはありません。信仰を神さまから与えられて、与えられた信仰を使っていくうちに、信仰が鍛錬され、わたしのうちで少しずつ確かになっていくのです。

鍛錬するということは、この世の価値の中で生きているわたしを戒めながら、この世の価値を超えた信仰の働く場を広げていくということです。この世の価値に従うわたし自身を自分で諫めながら、鍛錬していく。自分の内に働いている罪が働く前に信仰が働くように神に目を向けていくということなのです。マリアはそのように生きていた。それゆえに、この突然の天使の来訪とその言葉とを、すでに与えられていた信仰によって受け入れたのです。

マリアをそのようになる者として育んでくださったのは神です。その育みは、これまでマリアに与えられた苦難において施された恵み。マリアはこれまでも苦難の恵みをいただいていた。苦難によって育まれ、自らの信仰を育てていただいていた。マリアが天使の言葉をすぐに信じたのもそのような苦難の恵みがあったからです。

わたしたちがクリスマスに迎えるイエス・キリストのご降誕も、苦難の中に生まれることです。キリストは苦難の中で生まれて、苦難の中で死んでいく。しかし、そこにこそ真実の神の恵み、神のいのちが働いていることをわたしたちに教えてくださっています。今宵生まれ給う嬰児は、苦難を負って生まれてくださる。わたしたち一人ひとりの苦難の中に生まれてくださる。わたしたちが苦難を神の恵みとして受け入れ、従う者とされるために生まれてくださる。キリストはご自身の体と血をもって、わたしたち一人ひとりのうちに入って来てくださいます。感謝して受け取りましょう、キリストの苦難の恵みを。

祈ります。

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