「魂を刺し貫く栄光」

2023年12月31日(降誕後主日)
ルカによる福音書2章22節-40節

栄光というものは輝きです。わたしたちの世界においては栄光を手に入れるということは自分が輝くような、評価されることを意味しています。ところが、シメオンからマリアはこう言われます。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と。シメオンはマリアを祝福したと記されているのに、どうして心、魂を刺し貫かれるのでしょうか。剣で刺し貫かれるということは魂が殺されるということでしょう。シメオンは「イスラエルの誉れ、栄光」と言っているのに、その栄光によって母マリアの魂が殺される。これはどうしたことでしょうか。

ここでシメオンが預言したのはイエスの十字架です。愛する息子が十字架の死を遂げるとき、母マリアの魂もまた殺されてしまう。母と子の魂が通じ合っているがゆえにイエスの死はマリアの死。そうシメオンは預言しているのです。そして、それが神の民イスラエルの栄光だと言う。普通ならば、マリアの魂が喜びで満たされることが息子の栄光でしょう。マリアの魂が殺されるようなことが息子の栄光であり、イスラエルの栄光だと言われるのはおかしいとわたしたちは思います。しかし、シメオンはイエスの栄光を目に見える輝きとして語っているのではないのです。イエスの苦難と死を通して輝く神の民イスラエルの栄光もまた目に見える輝きではないし、目に見えるイスラエルという国でもない。イエスの十字架をシメオンは聖霊によって預言した。生まれて八日目のイエスを腕に抱いて、イエスの十字架の死、マリアの魂が殺される出来事が息子の定め、イスラエルの栄光だと預言したシメオン。その栄光は神の定めなのです。

このような言葉を聞いて、わたしたちは祝福されたとは思えないでしょう。マリアとヨセフは何も感じなかったのでしょうか。彼らは自分たちが律法に従ってなすべきことを完了したので、満足して家に帰ったかのようです。そして、幼子の上に神の恵みがあったと述べられています。幼子は何の問題もなく成長し、知恵に満たされている。確かに、神の恵みに満たされているのでしょう。その恵みによって満たされた知恵を用いて、イエスは神の意志に従うように人々に教えることになる。イエスの教えは律法を義しく守り、律法を満たすという教えです。彼の父と母も律法を満たしたことに満足しています。そして、父も母も律法に忠実であるということがイエスの将来に影を落とすのです。

イエスの将来は反論される将来。批判される将来。それは律法学者や祭司長たちが自分たちの権益を守るための反論。それでも、イエスは律法を一人ひとりの魂の中まで極めるように教える。イエスの律法への忠実さは、人々の魂の中で働く罪を指摘することに至るのです。イエスが律法に忠実であるからこそ、律法をまっすぐに語る。そのような律法への忠実さは、預言者と同じく迫害を受けることになってしまう。神の意志に従って義しく生きることを教えるイエスが迫害される。人々が求めるのは義しく生きることではない。律法を守り切れないのであれば、守れる程度に律法を薄めれば良いとファリサイ派や律法学者は考えたのです。守りやすい律法にして、人々が律法を守っていると安心することができるようにすれば良いと。そのような社会なのだから当然不正が行われてしまう。しかし、不正が行われていても誰も見向きもしない。いや、自分たちが不正に荷担しているのだから処世術だと自己弁護する。そのような社会に対して、イエスは預言者のように神の意志をまっすぐに語る。その姿は、マリアとヨセフから受け継いだ生き方。マリアとヨセフの息子であるがゆえに、律法に忠実に生きる生き方を教えられ、知恵が満ちて、体も魂も成長したイエス。その時点では、父も母もイエスの成長を喜んだことでしょう。しかし、イエスの成長は将来反対されるような生き方をする方向へと成長しているのです。シメオンが預言した通りに成長している。これは神の意志なのです。

反対を受けるしるしと言われていることは十字架に至るしるしという意味です。反対を受けるしるしはイエスの十字架なのです。そのようなシメオンの預言の言葉を両親はどのように聞いたのでしょう。彼らにはそのときには何も分からなかった。何も聞かなかったかのように彼らはシメオンの言葉に何の反応もしていない。ただ聞いただけで忘れてしまったかのようです。しかし、彼ら夫婦の心、彼らの魂のうちには刻まれているでしょう、シメオンの言葉が。

その言葉は、息子が反対されることだけではなかったのです。息子がイスラエルの多くの人たちを倒し、また起こすとシメオンは預言しました。イエスは、語る言葉によって人々を倒し、人々を起こすと言われているのですが、これは倒して起こすということ。イエスは言葉をもって、一人ひとりの罪を指摘し、罪を自覚した者は倒れる。倒れた一人ひとりをイエスは起こす。この起こすという言葉は、アナスタシスという言葉で復活をも意味する言葉です。それは突っ伏していた者が起こされることです。イエスは、倒して、起こすお方なのです。

このような預言をシメオンは聖霊によって語った。イエスは将来反対を受けて十字架に架けられ、母マリアは剣で魂を刺し貫かれる。このような悲しい預言が聖霊によって語られた。それはイエスの定めだった。神が定めたことであった。だから、取り消すことができない。それが分かっていたからこそ、マリアもヨセフも何も言わず、律法を完了して家に帰ったのでしょう。神のご計画を変えることはできないのです。マリアもヨセフも神の意志の絶対的必然性の中で、神を信じて生きてきました。だから、いかなる定めであろうとも引き受けて生きてきた。マリアがイエスを宿したときもマリアは天使の知らせを素直に受け入れたのです。イエスの父と母は神の意志に従う人たちでした。だからこそ、イエスもまた父母の生き方を受け継いでいた。もちろん、イエスの中にあるのは神の遺伝子であってマリアとヨセフの遺伝子ではないでしょう。少なくとも、マリアの遺伝子はあるのかも知れません。だとすれば、イエスのうちには神と人との遺伝子が一つとなっているのです。マリアとヨセフの信仰の遺伝子もまたイエスのうちに息づいているのでしょう。二人もまた、反対を受けることを引き受けて生きた。イエスが同じように生きることをシメオンに預言されて、二人は思ったでしょう。それは当たり前のことだと。わたしたちもそうなのだから、と。

人間は皆神の意志に反対します。人間のうちに働いている原罪がそうさせる。マリアもヨセフも原罪の働きを知っている。その手強さも知っている。彼らも自分のうちに働く原罪の手強さに苦しんだことでしょう。だからこそ、彼らはイエスが同じように生きることになることを引き受けるであろうと知っているのです。イエスだけではなく、父と母の二人も引き受けて生きてきたのだから。そのような夫婦のもとに神はイエスを生まれさせたのです。

神は、マリアとヨセフが律法に忠実であることを見ておられた。その二人がイエスを育てるに相応しいと選んだ。神の選びは、このときに起こったのではありません。マリアもヨセフも生まれる前からイエスの父であり、母であるように定められていた。イエスと同じように定められていた。そして、神の栄光は人間が喜ぶような栄光ではなく、人間が反対したくなるような栄光であることも知っていたのです。自らの魂が剣で刺し貫かれても、神の栄光、神の民イスラエルの栄光が輝くならば、満足する魂がマリアでありヨセフだったのです。

人間的な栄光を求める地上にあって、神の意志に従うことは困難な道です。人間的な栄光は自分が輝くことを求めるのです。神の栄光は神が輝くことです。そのために仕える人は信仰において仕える人。マリアとヨセフはそのような人たちだった。この二人の信仰者の魂をはぐくみ、イエスを恵みで満たした神が成し遂げる救いがイエスの十字架です。マリアの魂が刺し貫かれることによってもたらされたわたしたちの救いは自らが輝く栄光を求めるところにはないのです。

このように生きるいのちがわたしたちのために与えられ、わたしたちはキリストのものとして生かされてきました。わたしたちのうちで原罪が働いてもなお、イエスがあなたの救いとなってくださる。この一年の罪深き歩みを振り返り、新しい一年が神の意志に従う一年になりますように共に祈りましょう。

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