「内なる喜びの霊に包まれて」

2024年1月7日(主の洗礼日)
マルコによる福音書1章4節-11節

わたしたちが何かを見るという出来事は、わたしが見ることのように思えます。しかし、わたしが見ているものがわたしの前に現れないことには、わたしは見ることができません。また、わたしの前に現れたものが光を反射して、わたしの目に入ってくることでわたしの目で見ることができます。そう考えてみると、わたしが見るという出来事は受動的な出来事です。受動的に見ているということは、わたしが見るという出来事は、わたしの外の主体が見せている出来事ということになります。今日、イエスが洗礼の際に見た鳩のような霊は、神がイエスに見せた霊なのです。聖霊に反射した光はイエスの目にだけ入ってきた。いや、イエスだけが光を受け入れた。そばにいた他の人は受け入れなかったのです。神がイエスにだけ啓示したということはイエスが受け入れるお方だったということなのです。同じように、天からの声もイエスにだけ聞こえた声。イエスのことを「わたしの心に適う者」と語りかける言葉は、イエスの受動性をイエスの中で喜んでいる神の言葉なのです。

「わたしの心に適う者」と訳されている言葉は、原文では「あなたのうちで、わたしは大いに喜んでいる」となっています。この言葉は「気に入っている」とか「良く思っている」という意味の言葉です。イエスが神の霊をご自身のうちに受け入れたことによって、イエスのうちで神が喜んでいる。神の霊を受け入れるということは、神が注ぎ入れる出来事を受け取ることですから、注ぎ入れられるままに生きているということです。イエスは、受け入れようと考えて受け入れるのではありません。注がれるままに受け入れるのです。だからこそ、イエスのうちに入って来た神の霊がイエスのうちで喜んでいるのです。

入って来る神の霊は、イエスの内側にありながら、イエスを主導しています。おかしな言い方だと思うかも知れませんが、イエスのうちに入って来た内なる霊がイエスを包んでいる霊となっているわけです。内なるものが外なるものを包むということは、わたしたち人間の目から見れば矛盾しています。ところが、神の世界では内も外もないのです。イエスが受け入れた霊はイエスを包んでいる霊である。霊がご自分の主体であることをイエスが受け入れたので、霊の主体の中でイエスは生きているのです。それで、イエスが人々に施す洗礼はこう言われています。「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と。この言葉は「聖霊の中で、あなたがたを沈めるであろう」が原文です。聖霊に包まれて、あなたがたを沈めるであろうお方がイエスだと、洗礼者ヨハネは語ったのです。それは、聖霊の主導の中で、受動的にあなたがたを沈める働きをなすお方だということです。これが、神が喜ぶことだと言われているのです。

わたしたち人間が原罪を負っているということは、わたしが主体として生きているということです。わたしが神の意志を受け入れて、受動的に生きていたところから脱け出して、自分が主体であるように生きることになった。それが原罪なのです。この原罪の在り方から離れるには、自分が主体であるままでは無理なのです。マイスター・エックハルトという中世の神学者はこのことを「離脱」と言っています。自分の主体から離脱して、神の主体の中に入るということです。ところが、わたしたちは常に自分を主体として生きていますので、なかなか離脱できない。わたしがすべてを決めて、制御して、自分に都合の良いように整えて行きたいと考える。その際に、わたしの邪魔をする存在は排除してしまおうと考えます。また、わたしに都合の良いようになるために、協力してくれる人を探します。協力者が見つかれば、わたしの世界の中にその協力者を位置づけます。そうなると、その人はわたしの道具になってしまいます。そのような世界が、わたしたち一人ひとりが見ている世界です。わたしの世界、わたしが見たいと思っているだけの世界。ところが、イエスが洗礼の際に見た世界は、神によって見せられている世界です。その世界を素直に受け入れているイエスの中で、神は大いに喜んでおられる。人間がこのように生きることを神は望んでおられる。これがイエスの洗礼における天からの声が語っていることなのです。

では、わたしたちのうちで神が大いに喜ぶということがどのようにして起こるのでしょうか。それは、イエスと共に死んで、イエスと共に甦る洗礼を通して起こるのです。使徒パウロはローマの信徒への手紙6章3節、4節でこう言っています。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」と。わたしたち人間が新しいいのちに生きるために、イエスに結ばれる洗礼が与えられている。洗礼を通して、わたしたちはイエスと同じように、わたしのうちで神が大いに喜ぶ者とされる。

わたしたち人間が自分で洗礼を受けるのではないのです。神が洗礼を受けるように導いてくださる。神のこの御心に素直に従うことが、わたしたちが受けた洗礼なのです。素直に従わないならば洗礼を受けることはなかったのです。だとすれば、わたしたちは洗礼の際に、自分に死んで、キリストに生きるようにされた。ところが、その後のわたしたちは再び自分が主体である生き方へと戻ってしまうのです。あくまで肉に従って生きざるを得ない地上の生がわたしたちには残っているからです。神に従うところに入れられたのに、自分に従うところに戻ってしまう。これがわたしたちのうちに未だ原罪が働いているということなのです。このようなところから脱け出すにはどうしたら良いのでしょうか。使徒パウロはローマの信徒への手紙8章13節、14節でこう言っています。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」と。霊によって体の仕業を絶つというのはどうしたらできるのでしょうか。原文ではこうなっています。「霊によって、体の行いたちを、あなたがたが殺すならば」と。ちょっと恐い言い方ですが、「体の行いを殺す」とは「死に定める」という意味です。わたしたちが自分の体の行いを死に定めるということは、体の行いに流されないで、体の行いにいのちを流し込まないということです。

わたしたちが行うことは、わたしがその行いのうちにわたしのいのちを注ぎ込んで行っているのです。注ぎ込むことがなければ、その行いにはいのちが入ることがありませんから、行いは行われないことになります。いのちを注ぎ込むべきは、神の意志なのです。わたしの行いにいのちを注ぎ込むと、原罪に従った生き方になってしまうということです。そうならないためには、行いにわたしのいのちを注ぎ込まないようにするわけです。しかし、わたしが注ぎ込むことを止めようとすれば、わたしが主体になってしまいます。それで、霊によって、行いにいのちを注ぎ込まないようにすることをパウロは勧めているのです。

霊によって行わないようにするということは、霊の導きに信頼して、わたしの能動的な行いを行わないようにするということです。簡単に言えば、受動的に生きるということです。そう言われると、何だか流されているように思ってしまいますね。自分で何も決めないので、人が決めたことに従うかのようにも思えてしまいます。そこに、「霊によって」とパウロが言う意味があるのです。自分で決めないと言うと、何もしないだけのように思えます。何もしないことを自分で決めるようにも思えます。あるいは、誰かが決めたことに従うかのように思えます。ところが、「霊によって」何もしないように生きるということは、霊に従うので何もしないのではありません。霊に従って生きることを選んでいるのです。霊に従って生きるということは、受動的ですから能動的な選択を捨てることになるのですが、そう言われると、他人が決めた通りに従うかのように思えるだけです。さらにわたしたちはこう考えます。神が決めたことに従うことが「霊によって」と言われているのであれば、人間が決めたことと、神が決めたことを判断することが必要だとわたしたちは考えてしまいます。この判断こそが、わたしが決めたことになるのですから、わたしは判断しないということです。人が決めたことか神が決めたことか分からないのですから、いずれにしても目の前の出来事を素直に受け入れて生きる。そうするとき、神が決めたように神の意志に従ってすべてがなって行くのです。

2024年度の主題聖句として与えられたイザヤ書30章15節の言葉「安らかに信頼していることにこそ力がある」というみことばが語っていることも同じなのです。わたしたちがキリストと共に死に、キリストと共に新たないのちに生きる洗礼を受けたのは、「安らかに信頼していることにこそ力がある」とおっしゃる神に信頼するためです。神の力によって生きるためです。新しい年をこのみことばに従って生きて行くために、わたしたちは自分の都合に従った体の行いを、霊によって殺すことが必要なのです。そのように生きることができますようにと、神に祈り、霊に導いていただく一年でありますように。わたしたち一人ひとりの内に神の霊が生きて働いてくださいます。

一年の最初にいただく聖餐によって、イエス・キリストと一つになって生きていく道があなたに開かれるのです。感謝して受け取りましょう。

祈ります。

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