「神が発見させるもの」

2024年1月14日(顕現後第2主日)
ヨハネによる福音書1章43節-51節

何事にも原因や起源というものがあります。何かが起こるということには切っ掛けや最初の動作の原因というものがあるわけです。ギリシアに始まったギリシア哲学において探究されたのは、最初の動作の原因でした。第一原因は神と考えられ、その神を論証することが第一哲学の使命でした。この世界が存在しているのは第一原因である神が何かを起こしたからであるということです。

聖書においてももちろん第一原因は神です。哲学においては名前のない一般的な神を考えているわけですが、聖書が語るのはこの世界を創造したのは神ヤーウェだということです。すべてのものは神ヤーウェの意志によって生成していると聖書は語っています。マルチン・ルターはこの神の意志は絶対的必然性であると言いました。このような世界観は、後の科学によって否定されましたが、聖書の信仰においては神がすべての根源であることは大前提なのです。それゆえに、今日のヨハネによる福音書の記事においてもイエスから始まった動作が繰り返されています。新共同訳で「出会う」と訳されている言葉は「発見する」という言葉です。最初にイエスがフィリポを発見します。フィリポはナタナエルを発見します。フィリポはナタナエルに、わたしたちはメシアを発見したと言うのです。このフィリポもイエスをメシアとして発見したのですが、その前にイエスによって発見されているのです。

また、ナタナエルはイエスがナザレ出身であることで、旧約聖書にはナザレという地名が出てこないことを理由として、ナザレから良いものは出てこないと言います。ところが、イエスはそのナタナエルを先に見ているのです、イチジクの木の下で。そして、彼に言います、「あなたは見るであろう、もっと大きいことを」と。さらにその大きいこととは、「天が開くのを見る」ということであり、その天から天使たちが人の子の上に上り下りする出来事を「あなたがたは見るであろう」と言うのです。発見にしても、見ることにしても、イエスから始まって、弟子たちが次々と発見し、見るのです。イエスが見る世界を弟子たちが発見し、見ている。これはイエスが神であり、第一原因であるということを語っているのです。

発見や見るという出来事をわたしたち人間は自分が発見したと思い、自分が見ていると思います。しかし、発見も見ることも、発見させられていることであり、見せられていることなのです。神がそこに置いて、発見するようにさせているのです。神が目の前に置いて、わたしたちが見ることができるようにしている。物にしても人にしても、わたしたちが見る場合には、その物がわたしの目の前に現れる必要があります。現れなければ見ることはできません。発見することも、それを隠している覆いが取り除かれて見えるようにされて、わたしたちが発見するのです。覆いを取り除くのは神です。

このように考えてみると、わたしたちが生きていること、生活していることはあくまで受動的に受け取るようにされて、教え導かれていることなのです。しかし、わたしたちは自分が最初に見つけたと思い、わたしが見ていると思っています。そこに置いたのが神であるなどとはつゆ知らず、わたしが最初の者であると思うのです。反対に、信仰は神からすべてが始まっているという世界を見るのです。それが、今日イエスが弟子たちを導いている世界です。最後にナタナエルに言うイエスの言葉も神が見せる世界を教えているのです。

わたしたち人間は自分たちの世界を作っているのは自分たち人間だと思っています。さまざまなものを作ったのは人間ですからそう思うのですが、ものの素材を作ったのは神です。もののイメージをわたしたちに与えたのも神です。さらに、人間を造ったのも神です。しかも、ご自分の像(かたち)に似せて造ったのですから、人間は神の像、神のイメージなのです。神の像である人間が罪を犯したことで、神に造られた自分自身を見失い、神が造り、維持しておられる世界も見失っている。これが原罪と言われる罪の状態なのです。わたしたち人間は、神が造り見せておられる世界を自分たちが作った世界だと思い込んでいる。そして、自分たちが生きやすいように造り替えることができると思っている。このようなわたしたち人間が自分の世界から解放されて、神の世界を見ること、これがイエスが最後に語っている「あなたがたは見るであろう」という世界です。それが「天が開け、人の子の上に、天使たちが上り下りする」という世界。つまり、天地がつながっている世界です。

聖書においては、天は神の世界、地は人間の世界という区別があるわけですが、二つの世界が別々にあるのではなく天と地が通行可能になる世界が「人の子の上に、神の天使たちが上り下りする」世界です。その世界を開くのは「人の子」イエスです。イエスが神の世界と人間の世界をつなぐ。イエスが十字架に架けられることによって、天と地がつながるということが今日イエスが弟子たちに語る未来なのです。ナタナエルに語っているようでいて、イエスは「あなたがたは見るであろう」と言っています。つまり、ナタナエルだけではなく、ナタナエルと同じくイエスを信じる人たちもまた見るであろうということです。その人たちはイエスの十字架を信じて、従っている人たち、つまりキリスト者なのです。キリスト者は、神の世界が天と地を貫いて広がっていることを見るのです。その世界が開かれるために、イエスの十字架が起こされる。

イエスの十字架を起こしたのは、直接的には当時のユダヤ教指導層やローマ総督です。ユダヤ教指導者たちは、イエスが民衆の支持を得ていることが面白くなかった。それで、民衆に対してはイエスは神を冒涜していると言い、ローマに対しては反乱を企てていると言って、イエスを十字架に架けるように企んだのです。しかし、聖書が語るのは、十字架を起こした根源は神だということです。第一原因は神なのです。人間がイエスを拒否し、イエスを神の遣わしたメシアであると信じることなく、十字架につけて殺してしまったのですが、そうなるべくしてなった。この計画はすべて神が計画し実行させていることなのです。たとえ、人間が神に反して起こした十字架であろうとも、神の言葉をイエスが語ることによって起こったのですから、原因はイエスが語った神の言葉なのです。そこから始まっていますので、究極的原因は神です。第一原因、動作の始まりは神なのです。この神の意志の絶対的必然性の世界を認める信仰に入れられた者は神に従うのですが、この世界を認めない人たちは神に逆らうのです。神の計画、神の意志の中にありながらも神を信じることと信じないことが起こるのです。それでも、わたしたちは神を信じても信じなくてもどこまで行っても神の手から離れることはできないのです。

離れることができない神の世界、神の支配を認めるとき、わたしたちは信仰を受け取っていると言えます。認めないとき、信仰を脇に置いて捨て去っていると言えます。それでも、受け取る時が来る。その未来はすべての人に開かれています。最後の最後まで開かれています。天と地が一つとなる世界が開かれています。この世界はただ受け入れるだけで入っている世界です。最初の動作は神によって行われてしまっていますから、わたしたちは受け入れ従うだけ。そのとき、神の世界に入れられていた自分を発見するのです。このような働きが神によって行われてしまっているということが、ルターが言う神の意志の絶対的必然性なのです。わたしたちは、神が造られた世界に、神によって生み出され、神によって生かされています。神の意志があなたを神の世界に生み出したのです。最初に神の意志があってこの世界は現れたのです。

何のために神は世界を造り、わたしをその世界に生み出したのかと考えてしまうものですが、わたしたちに分かるのは神がわたしを造ったということだけです。生きている意味が分からないとしても造ったお方のご意志はあるのです。その意味が分かるのは終わりの時でしょう。それまではただ生かされていることに感謝して生きていくべきなのです。わたしたちが生きる意味を求めることはわたしの世界しか認めないことと同じです。他者も含めた神の世界、他者同士が複合的に生かされている世界の意味は生かされて行った先でしか分かることはないでしょう。なぜなら、わたしは他者を分からないからです。他者の一面しか知らないからです。わたしが知っているのはわたしが受け入れやすい一面だけであるということを忘れてはならないのです。また、敵であれば受け入れられない一面だけしか知らないということです。わたしたちはすべてを知っているわけではないのです。それまでは、神がわたしを知っておられることだけを信じて生きていきましょう。神があなたを造ったのですから、神が為し給うようになっていくのです。

祈ります。

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