「神が近づく世界」

2024年1月21日(顕現後第3主日)
マルコによる福音書1章14節-20節

近づくということは、近づく主体があって、その主体が近づくわけです。一般的に言って、時が近づいたと言われると、いよいよ時間が来たと思いますが、近づいたと感じるわたしが主体だと思います。誰かから時間が来たと言われても、同じようにわたしの出番が来たと思うものです。これと同じように、イエスが言う「時は満ち、神の国は近づいた」という言葉を聞いて、わたしたちが思うのはいよいよ神の国に入る時間になったということです。「時は満ち」と言われていますので当然ですね。ところが、イエスが言う「時は満ち、神の国は近づいた」という言葉が語っているのは、神の国そのものがあなたがたに近づいたということです。それは、神の国そのものが近づくのであって、あなたがたが神の国に近づくのでも入るのでもないということです。つまり、主体は神の国の方にあるという意味です。

「時は満ち」ということも時そのものが満ちたのであって、あなたの時間が来たということではないのです。もちろん、近づいた神の国に入るのもあなたが入るのではなくて、神の国の方があなたを包むのだということです。そうなると、わたしは何もしなくても良いのかと言えば、そうではないのです。「悔い改めて、福音を信じなさい」とおっしゃるように、自分が主体である自分の世界を捨てるという考え方の方向転換をしなさいということです。そうすることで、福音の中で信じる生き方が生まれるとイエスはおっしゃっているのです。だからこそ、弟子たちはすべてを捨ててイエスに従ったのです。

さて、イエスが言う「時」という言葉はカイロスという言葉で、一瞬の時を表す言葉です。このカイロスは「機会」、「チャンス」と訳されますが、アガンベンというイタリアの哲学者は「幅のない時間」と言いました。つまり時間的に測ることができない時間だという意味です。このカイロスもギリシア神話では神さまで前髪しかないのです。後から追いかけてもつるつる頭で捕まらないと言われています。つまり、向かってきたときにしかカイロスをつかむことができないということです。だから、チャンス、機会と訳されるわけです。この考え方から言えば、イエスが言う「時が満ち」という言葉の意味はカイロスが目の前にあるということです。目の前にあるので、神の国があなたに近づいているのだとイエスはおっしゃっているのです。しかし、あなたは前髪をつかむ必要はないのです。近づく神の国があなたを包むからです。

このイエスの言葉以前には、神の国には努力して入るのだと考えられていました。聖書に記されている神の戒めである律法を守り通した果てに、わたしが神の国に入ることができるようになる。わたしの努力によって神の国に入る。こう教えられてきたのです。罪人や病人たちは、その努力ができないようなマイナス状態にあるので、神の国からは遠く離れていると考えられていました。そのような社会の考え方に対して、イエスはまったく反対のことを福音として宣教したのです。人間が努力して入るのが神の国ではなくて、神の国の方があなたがたの目の前に近づいてくるのだ。だから、今までの考え方を捨てて、方向転換して、神の国に包んでもらいなさい。それが「福音の中で信じなさい」という言葉になっているのです。「福音を信じなさい」ではなく、「福音の中で信じなさい」が原文ですので、福音の中で信頼していなさいとイエスはおっしゃっているのです。

わたしたち人間が常に自分が主体であるように生きている世界から、神が主体である世界に生きることが福音なのです。どうして、それが福音であるかと言えば、誰でも包んでいただけるからです。今まで、神の国から遠く離れていると思われていた罪人や病人たちのところにも神の国の方から来てくださっているのです。だから、素直に包まれているならば、あなたがたは神の国に入っているのだとイエスはおっしゃっているわけです。このような逆転した世界をイエスが宣教しましたので、今までの考え方を捨てて、方向転換して生きる「悔い改めなさい」という言葉が語られているのです。

わたしたちは悔い改めを悪かったと反省することだと思い込んでいます。日本語ではそうなのですが、もともとのギリシア語の意味は「考え方の変更」です。さらにヘブライ語では「悔い改め」をシューブと言いますが、この言葉は「戻ること」、「立ち返ること」を意味しています。つまり、原点に戻るということです。ご自身から遠く離れてしまった人間たちに向かって、神は「シューブ」と呼びかける。「立ち返れ」、「帰って来い」と呼びかける。その声を聞いて、人間が神の許へ帰るとき「シューブ」悔い改めが生じるのです。これは人間が「あの頃は良かった」と過去を懐かしむこととは違います。過去を懐かしむのは、荒野の空腹の生活の中で「エジプトの肉鍋が恋しい」と嘆いた出エジプトの民と同じです。ヘブライ語においても、神の呼びかけに素直に耳を傾けて、神が主体であるところに戻ることです。あくまで、神が主体であって、呼んでくださるお方に向きを変えるということです。これが悔い改めですから、イエスがおっしゃる考え方の方向転換も同じことなのです。

弟子たちがイエスの呼びかける声に従って、すべてを捨てて従ったという出来事も、悔い改めなのです。それまで就いていた仕事を捨て、家を捨て、イエスにただ従う。イエスの後についていく。それこそが悔い改めであると、語られているのです。弟子たちが反省したということではないのです。弟子たちは生きる向きを変えたのです。生き方を変えたのです。考え方を変えたのです。自分が主体である世界から神さまが主体である世界に向きを変えた。そのとき、彼らは神の国に包まれていた。いえ、イエスこそが神の国であった。イエスの後にも先にも神の国が広がっていた。今までの生き方を離れて、自分が包まれている神の国の中でイエスを信じて従った弟子たち。彼らは福音の中で信じたのです。

わたしたちが見ている世界も、自分が何かをしなければならないと要求される世界です。わたしたちが責任を負わされる世界です。誰かが責任を負わされて、責任を取れと言われる世界です。自分が責任を負うのではなく、他者に責任を負わせて、自分は逃れていく人。責任を負うのは損だと思う世界。そして、わたしが損した責任を取れと他者に迫る。このような世界が、人間が主体であると思い込んでいる世界です。責任逃れの世界です。このような責任逃れの考え方の人ならば、神の国の方が近づいてくれる世界を喜んで受け入れるのではないかと思う方がいるかも知れません。自分で責任を取りたくないので、神の国が責任を取ってくれるのであれば好都合ですから。イエスはそのような神の国を宣教したのでしょうか。

神の国の方が近づいてくれる世界であるならば、誰も責任を問われないで、何でも神さまが提供してくれて、責任を取ってくれる世界なのでしょうか。そうであれば、神の国はとても楽な世界ですね。そんな世界ならば誰もが入りたいと思うでしょう。ところが入りたいと思っても入ることができないのが神の国なのです。責任を負わなくても良いのであれば、入りたいと思うとき、わたしの判断が中心になっています。わたしがそのような世界に入りたいと思っても、入ることはできないのです。すでに包まれていることを受け入れるだけですから、わたしが入るのではないからです。受け入れるだけで良いのであれば、誰でも入ることができると思いがちです。そのように考える人は受け入れない人なのです。なぜなら、受け入れるとは、すでにあると信じる信仰による受け入れだからです。どうにかして入りたいと思う人は、すでにあるとは信じていないのです。目の前にあるとは思ってもみないのです。入ること、入りたい思い、それらはすべて人間中心。わたし中心。すでにあると信じるのは、そのものを在らしめておられる方が中心。だから、入ろうとしても入ることができない。入ろうとしなくても入っているのですから。

イエスが宣教した神の国は、そのような国です。だからこそ、イエスはこの世の自然の姿を神の国のたとえとして語ったのです。何の変哲もない自然の姿、種蒔き、からし種、雨、太陽などすべて神の国です。すでにあなたは神の国にいるのです。この世界を信じるとき、わたしたちはすべてを持っていなくてもすべてを持っている。すべてを剥ぎ取られてもすべてを持っている。それがカイロスという時間です。幅のない時間です。しかし、幅のないところにすべてが満たされているのです。すべてを剥ぎ取られ、十字架に架けられたお方がすべてを持っておられる。そのお方を信じる一人ひとりは、すでに目の前に神の国があることを見るのです。あなたは神の国の中に生かされている。この世界を見る目を開くイエスの言葉に従って聖餐をいただくわたしたちを神の国が包んでくれているのです。今日も神の国の中に生かされていることを見る目が開かれますように。主の体と血に与って、イエスと共に生きている神の国を生きていきましょう。

祈ります。

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