「汚れは出ていく」

2024年1月28日(顕現後第4主日)
マルコによる福音書1章21節-28節

わたしたちの体は異質なものを外に出します。異質なものはわたしの体とは相入れないので、必然的に外に出したくなるのです。しかし、体ではなく魂にとって異質なものを出すことは難しいものです。魂は体とは違って、異質なものに汚染され易いのです。もちろん、体もよく汚染されます。出そうと思ってもなかなか出せないと、体調を崩します。それで、医者に診てもらって薬をもらえば、何とか外に出すことができます。ところが魂には人間の医者は対処できません。魂の医者はイエス・キリストですが、わたしの中の異質なものをイエス・キリストが外に出すためにはわたしがイエスを受け入れる必要があるのです。

今日、イエスが癒したある人は魂に異質なものを感じ取っていて、イエスに叫ぶのです。「かまわないでくれ」と。この言葉は「わたしたちとあなたに何が」という言葉で、何の関係があるのかと言っているわけです。そして「我々を破壊するためにあなたは来たのか」と言います。イエスはその人を支配していた汚れた霊たちに出て行くように命じます。イエスの言葉によって汚れた霊たちは外に出ざるを得なくなった。イエスは魂にとって異質なものを外に出して、彼の魂を守ってくださったのです。その方法は汚れた霊たちに黙るように命じるということでした。

わたしたちは黙ることができず、いろいろとしゃべります。しゃべるということは、頭の中で考えていることが口から出てくるということです。わたしたちは自分がしゃべっている間は相手の言うことを聞いていません。しゃべっているわたしが中心だからです。この状態は汚れた霊に支配されている状態です。自分に語り掛けている相手の言葉を聞かず、自分がしゃべり続ける。こうして、相手を黙らせようとするのです。ところがイエスは、汚れた霊に黙るように命じ、汚れた霊は黙ってしまいます。イエスの言葉は権威ある言葉だからです。

権威という事柄は、権威そのものであるお方から委託された任務に就いているときに言われるものです。イエスは神の権威によって任務に就いている。それゆえに、イエスが命じる言葉に逆らうことができないのが汚れた霊たちでした。しかし、社会的にはイエスがユダヤ教の教師として認められたわけではなかったのです。社会的にはイエスに権威はないと言われても仕方がない。それなのに汚れた霊たちの方がイエスの権威を認めているのです。おかしなものです。

さて、イエスに対する汚れた霊たちの言葉に現れていますように、汚れた霊は複数です。その人が支配されていたのは複数で働いている霊でした。汚れた霊たちは単独で生きることができず、複数の仲間を作ります。互いに裏切らないように縛り合っているのが汚れた霊たちです。彼らは単独になると居場所を失ってしまう。これが、今日イエスがわたしたちに語ってくださっていることです。

会堂にイエスが入って来たとき、イエスに叫んだ人は複数の汚れた霊に苦しめられていました。彼らは自分たちの仲間にその人を取り込もうとしていた。彼にとっては、彼らは異質な存在でした。彼のうちで汚れた霊との闘いが行われていた。その闘いを援助するイエスに対して汚れた霊たちは叫ぶ。それはまた、その人自身の闘いから出てきた叫びでもあるのです。複数形ですから汚れた霊たちの叫びなのですが、実は支配されそうになっているその人の魂が救いを求めている声でもあると言えます。「我々を破壊するためにあなたは来たのか」。この声を聞いて、イエスは汚れた霊に命じるのです。「あなたがたは黙らされよ。あなたがたは彼から出て行け。」と。イエスの命令の言葉には二つのことが語られています。黙らされることと出て行くことです。

人は黙ることによって、他者の言葉を聞きます。黙っていない人は他者の言葉を聞きません。他者の言葉を聞いているならば、わたしは沈黙しています。わたしたちの口と耳は同時に働かないのです。口に心を集中しているならば耳には心は向いていない。わたしの頭で考えていることが口から出ている間は、わたしは耳を通して聞こえてくる他者の言葉を心に入れることはできないのです。黙ることによって、他者の言葉を心に入れることができるようになる。それゆえに、ある人が他者の言葉を聞く状態にされるためにイエスは「黙らされよ」と命じるのです。イエスの命令は、神によって沈黙に入れられよ、という命令なのです。その人のうちで神が働いておられる働きを受け入れるために黙らされよとイエスは命じたのです。

汚れた霊たちが沈黙に入れられたその人の魂は、イエスの命令、神の意志を受け入れる状態にされた。そして、汚れた霊は出て行かざるを得ない状態にされたのです。汚れた霊はその人を仲間に入れることができなかった。どうしてでしょうか。彼が魂にとって異質である汚れた霊を認識して、闘っていたからです。汚れを認識しているということは、汚れに染まりきってはいないということです。彼の中で汚れた複数の霊たちが彼を取り込もうとしていた。しかし、彼はその異質さに抵抗して、イエスに叫んだ。また、汚れた霊たちも抵抗するその人を抑えようと叫んだ。その叫びを聞いて、イエスはこの人の魂が闘っていることを知ったのです。それで、汚れた霊が黙らされるように命じた。汚れた霊たちは黙らされることで力を失い、彼の外に出て行かざるを得なくなった。

わたしたちの魂も、異質なものを感じ取っています。これはおかしいと思うのです。しかし、それが汚れた霊の仕業だとは思わず、異質さを感じながらも少しずつ同化していく。汚れた霊と同じようになって行くことで、異質さを感じなくなる。しかし、異質さを受け入れたくないと抵抗する魂の部分が残っていて、この人は叫んだ。彼は単独でいることができる魂だったのです。仲間に取り込まれることなく、単独で生きる魂だった。

わたしたちが洗礼を受ける前、イエスに出会う前にも、何か異質なものがわたしのうちにあると感じていたはずです。これではダメなのだと感じていたはずです。異質性を感じる魂は叫んでいます。これではダメなのだと叫んでいます。その叫びをイエスは聞いておられる。異質性を感じ取る魂は単独でいる魂です。他の人に流されることなく、社会の、あるいは周りの在り方に疑問を感じているのです。汚れた霊が複数であると言いましたが、社会も複数で存在するものです。単独で生きている人、社会になじまない人を排除するのが社会です。このような在り方がわたしたち人間が抱えている原罪の働きです。単独で生きることができない。みんなの中に自らを隠している人は単独で生きることが怖いのです。社会で認められるために、おかしいと思いながらも同調圧力に巻き込まれていくのです。そして、他の人を同調圧力に引きずり込む。このような在り方に疑問を感じている人は、単独性を生きている人です。そして、叫んでいる人です。このような人は、孤独でしょう。誰も理解してくれないと思うでしょう。しかし、理解してくださるお方がいるのです。イエス・キリストの父なる神です。このお方に叫ぶことによって、わたしたちは自分を義しく見ることができます。神への叫びによってわたしが陥っている罪、わたしを引きずり込んでいる罪を認めることができます。そうなったとき、わたしはイエスが命じる言葉に聴き従うのです。「黙れ、この人から出て行け」と汚れた霊に命じるイエスの言葉が力を発揮するのです。わたしたちが黙ることによって、イエスの言葉が耳を通ってわたしの魂にまで届くのです。

沈黙はただ聴くということです。神の言葉を聴くためには沈黙が必要なのです。沈黙する魂に神の言葉が入って行く。そして、神の言葉に従ってわたしは生きるようにされる。わたしたちのうちに働いている汚れた霊は出て行かざるを得ない。こうして、わたしたちは浄められる。神のものとされる。つまり、聖別されるのです。沈黙によって、わたしたちは神のものとされる。そうであれば、わたしたちが沈黙しているならば良いのかと言えばそうではありません。わたしが口を閉じているとしても、わたしのうちで汚れた霊たちが複数でいろいろわたしに語り掛けてくるのです。その声に耳を閉ざす必要がある。わたしのうちでうるさくしゃべり続けている汚れた霊が沈黙させられるためには、わたしが神に叫ぶことが必要なのです。わたしのうちでしゃべり続けるものを黙らせてくださいと神に祈るのです。そのとき、あなたは神の言葉を聴き、神の力ある言葉に従わせられる。その言葉は、あの十字架から聞こえてくる。十字架の言葉はわたしたち救われる者には神の力なのです。わたしたちが神の言葉に支配されるならば、何も恐れる必要はありません。神ご自身がなさるようになっていくと信頼できるからです。安らかに信頼している魂は、何も恐れることなく、神が為し給うように生きる。

「黙れ、この人から出ていけ」と語るイエスの言葉によって、わたしの中から汚れた霊たちが出て行きますように。イエスの言葉があなたのうちに入り、あなたがイエスのものとされますように。

祈ります。

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