「手を握るために」

2024年2月4日(顕現後第5主日)
マルコによる福音書1章29節-39節

先週の福音書では汚れた霊、悪霊は複数だということを見ました。今日の福音書でも、イエスは多くの悪霊を追い出したと言われています。複数でなければ存在できないのが悪霊であり、汚れた霊なのですが、悪霊から救い出すイエスは十把一絡げで救い出すのではありません。一人ひとりを救い出すのです。それで、今日もペトロの姑の手をしっかりと握ったと言われています。

手を握るという行為は一人ひとりに向き合うことです。手は二つありますから二人までなら握ることができると思うかも知れませんが、わたしたちは握っている手に心を集中していますから、二つの手で握っているとしたら、どちらか一方にしか心を集中することはできないのです。右手に集中しているときには左手は体のバランスを取るというように補助の役割をしています。わたしたちの体は、心が集中している方向に向けて、体全体を使っているのです。目も二つありますが、右と左を別々に見るなどということはありません。足も同じく、向かう方向に両足がバランスを保ちながら動いていくものです。その場合、腹筋も使っていますし、腕でバランスを保ちながら進んでいます。このように、わたしたちは単に手を握るという動作だけだと思っても、手だけで行なっているわけではありません。体全体が手を握る動作に集中しているのです。

ペトロの姑の手を握ったイエスは、ペトロの姑に心を、魂を集中していた。しっかりと握ることによって、ペトロの姑を熱から取り戻した。熱に連れて行かれないようにしたということです。イエスが手を握り、熱が姑を手放したということは、イエスの魂が手を通してペトロの姑の魂とつながったということです。これが最も大事なことです。

わたしたちが洗礼を受ける際にも、イエスの魂とつながったのです。イエスが生きたようにわたしも生きたいと願ったあなたの魂はイエスとつながったのです。使徒パウロが言うように、洗礼はイエスと共に死に、共に甦ることですから、これは魂がつながっていることがなければ実現しないことなのです。わたしたちが受けた洗礼は、イエスとつながる洗礼。イエスと一つになる洗礼なのです。ペトロの姑の魂も、イエスとつながることによって熱から救い出されたのです。これはわたしたちが受けた洗礼と同じ意味を持っています。それゆえに、姑は「彼らに奉仕した」と言われています。

新共同訳では「彼らをもてなした」と訳されていますが、これは女性の奉仕は食事を提供してもてなすことだという先入見が入り込んだ訳になっています。原文では「奉仕した」です。この言葉は、ディアコネオーというギリシア語ですが、奉仕することと訳されます。しかし、奉仕とは仕えることであって、実はイエスに従うことなのです。弟子たちもイエスに仕えているのです。ペトロの姑もイエスに仕えて、彼らの集団のために奉仕したということです。それは単に食事を提供したということ以上に、自分にできることをして彼らイエスに従う者たちと共にイエスに従ったということです。ペトロの姑がこのようなところに生きるために、イエスは彼女の手をしっかり握ったのです。

手を握るということが単なる挨拶ではなく、また引き起こすための行為でもなく、イエスが彼女をしっかり捉えるということだと考えてみれば、ペトロの姑はイエスに捉えられたのです。イエスが握ってくださる手を受け入れ、イエスの手に自分のすべてを委ねた。彼女も手に魂を集中したのです。それで、彼女を苦しめていた熱は、彼女を手放したと言われています。熱が握っていた彼女を、本来のところに取り戻すために、イエスは彼女の手をしっかりと握ったのです。そして、彼女を起こした。つまり、復活させたということです。

わたしたちは悪いものに握りしめられて、苦しむものです。その苦しみは単なる痛みだけではなく、複合的に働いています。熱は体の力を失わせ、弱らせますので、体全体が弱くなります。起き上がる力もなく、寝ているしかなくなる。熱が彼女を握っている限り、自分でそこから脱け出すことができない。それゆえに、イエスは弱ってしまった彼女の手を握り、彼女はイエスの握るままに委ねた。弱っているがゆえに、なすがままになっているとも言えます。そう考えてみれば、わたしたちが弱っていることで、イエスにすべてを委ねることができるとも言えます。使徒パウロが聞いたイエスの言葉にもあるように神の可能とする「力は弱さの中で発揮される」ということです。弱さは神の恵みを受け取る器だと言えるでしょう。

山上の説教にありますように、心の貧しさも欠乏を感じている心ですから、ただ受け取るようになっていると言えます。そのような人たちには神の国が彼らのものとして働いているとイエスはおっしゃっています。弱さや貧しさは神の恵みを受け取る器なのです。だからこそ、そのような人たちがイエスの許へ集められてきた。そして、イエスは多くの悪霊を追い出したのです。一人ひとりの手を握って追い出しだのです。そして、そのためにわたしは来たのだとおっしゃる。

手を握るために来たイエス。このお方は、一人ひとりを握るお方です。わたしたちが弱っているとき握ってくださる。わたしたちが貧しく渇望しているとき握ってくださる。ご自分の力のうちに迎え入れてくださる。このお方は、ご自身弱くなったお方です。十字架の上で、何もできない状態にされたお方です。弱っている人の手を握って、力を注ぎ入れてくださったお方が十字架の上で弱くなる。そして、神の力によって復活するのです。イエスは十字架を通して、弱さの力を語ってくださっています。あなたの弱さは神の恵みの器なのだと語り掛ける十字架。十字架の言葉は弱い者の力。救い出す力。あなたの手を握るお方は弱さの恵みを生きるお方。イエスはわたしに力を注ぎ入れてくださることで、ご自分が弱くなってくださった、とも言えます。このようなお方に手を握っていただいているあなたは、イエスとつながっている。そして、弱さの恵みを証する者とされている。

ここで癒された多くの人たち以外にも、他の村や町にも弱っている人がいる。そこにも行かなければならないとイエスはおっしゃっています。さまざまなところに行かなければならない。そのためにイエスは出てきたのだと言うのです。イエスは弱っている人たちを探している。弱っている人たちがイエスを探しているのではありません。イエスが彼らを探している。彼らのところにやって来る。それがイエスの使命であり、イエスのいのちなのです。

だから、わたしたちは自らの弱さに落胆し、絶望する必要はないのです。イエスはわたしたちの弱さをご存知でやって来てくださる。あなたの弱さをご存知でそばに来てくださる。あなたの手を握るために来てくださる。このお方が、あなたの主、あなたの神。わたしの神、わたしの主。このお方に知っていただくためには、弱くなることが必要であるとしても、わたしたちは自分から弱くなることはできません。むしろ、弱くされる。弱くなってしまう。それが、わたしたち人間が神の恵みに与る道なのです。そうであれば、わたしが弱いとき、わたしは強いと言ったパウロの言葉も理解できます。わたしが弱いとき、イエスがわたしのそばに来てくださって、わたしの手を握ってくださるので、わたしは強い。わたしが弱いとき、わたしはイエスの手によって強く支えられるのです。

あなたは、何も恐れる必要はありません。弱くなっても心配ない。ただイエスがそばに来てくださることを信じて祈るだけで良い。弱さをすべてご存知のイエスはあなたを見失うことはありません。ただ、乞い願うだけのあなたで良いのです。そのとき、必ずイエスはあなたの願いを聞いてくださいます。そして、あなたはイエスに従う者として復活することができるのです。

今日、一人ひとりのためにご自身を差し出してくださる聖餐に与って、イエスの力に満たされましょう。イエスはあなたのうちで、ご自身の弱さの力を発揮してくださいます。

祈ります。

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