「見えるものに惑わされず」

2024年2月10日(主の変容主日)
マルコによる福音書9章2節-9節

わたしたちは神を見たいと思うものです。神さまがおられるならば見たいものだと思います。見えないのであれば神はいるのかいないのか分からないと考えるからでしょうね。しかし、神は見えないお方です。見えないお方をどのようにして認識するのか。目という視覚の機能によって認識するのか、あるいは信仰によって認識するのかで考え方が変わってきます。視覚による認識は、わたしが見るということが主体になります。神がわたしの目で見えるようにご自分を現してくださるならば信じようとなるわけです。ところが、見えないものを信じる信仰においては、信じることによって見えないものを認識するわけですから、目で見えなくても良いのです。信じれば良いのです。もちろん、信じれば良いと言われると洗脳されているのではないかと思う人もいるでしょう。ところが、キリスト教の信仰においては、洗脳のような他の人と同じになることが目指されているわけではありません。むしろ、一人ひとりが神を認識することが目指されています。ですから、神を認識するのは誰かの証言があるからではないのです。ただ、このわたしが神を認識するということなのです。

このようなところに至るためには信仰が必要です。アンセルムスという古代の神学者が言った言葉があります。「理解するために信じる」という言葉です。「信じるために理解する」ではなく、「理解するために信じる」です。信じることによって理解するに至るという意味です。理解して、わたしが確認してから信じようという立場は「信じるために理解する」ということになります。それでは信仰ではないということです。ヘブライ人への手紙11章1節で語られているように「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」ということなのです。望んでいる事柄とは神がおられるということですし、見えない事実とはわたしたちが視覚をもって確認できない事柄です。それを確認するのが信仰なのだと述べられているわけです。

アウグスティヌスという同じ古代の神学者はこう言っています。「わたしはあなた(神)のことを覚えているのであるから、あなたはわたしの記憶のうちに住んでいるのである」。アウグスティヌスは「告白」という文書の中でこのように語っています。わたしたち人間が神を覚えている。あるいは神に祈っているということにおいて、わたしの思いや祈りのうちに神が住んでいると言っているわけです。その通りで、神を認識するということは、わたしの思いによってではなく、わたしの思いの中に住んでいる神のお働きによって認識するということなのです。つまりは、神の言葉を聞いていると信じているあなたのうちで神はご自身が認識されるように働いておられるということなのです。これを信仰と呼ぶのです。

さて、今日の日課にありますイエスの山上の変容の出来事でもこのことが語られています。山上の変容は、山の上でイエスの見えているお姿が変わったという出来事ですが、この姿を見たペトロは「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と言います。その昔は、スマホなどもありませんから、自撮りで記念撮影することはできません。インスタに上げることもできません。しかし、ペトロは同じような気持ちで、記念の仮小屋を建てましょうと提案しているわけです。これは見えていることだけを留めようとする気持ちですね。わたしたちが記念撮影をするのもそうです。今見たことを記憶するだけではなく、他の人にも見せたいと思うからですね。他の人に見せて、「いいね!」をたくさんもらいたいのです。しかし、写真に写っているものを見ても、その場の空気や空間というのは伝わりません。平面的な画像が残っているだけです。

昔、神学生の頃、イスラエル旅行に行かせていただきました。そのとき、費用を負担してくれた義理の父がわたしに言いました。「写真は撮るな。」と。それは自分のために写真は撮るなという意味でした。他の人のために代わりに写真を撮ってあげることは良いけれど、自分のために写真を撮って残そうとするなという意味でした。どうしてかと言えば、写真を撮ることに夢中になって、その場の空気や空間を感じることができなくなるからということだったのです。その戒めに忠実に従って、わたしは写真を撮ることはしませんでした。おかげで、そのときの空気、香り、空間を今でも思い出すことができます。それはとても大切な経験としてわたしの中に残っています。あのイスラエルの空気、エルサレムの神殿域の空間の広がりなど、今でも鮮明に思い出すことができます。ここをイエスさまは旅されたのだなと思い、ここで苦しまれたのだなと思い起こすことができます。これはわたしだけの記憶です。誰も共有できない大切な記憶です。

しかし、今日天からの声が言う言葉は、そのような記憶さえも大切なのではないということです。天からの声はこう言っています。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と。「これに聞け」と言っています。原文では「彼の事柄を聞け」です。彼の事柄とはイエスの十字架と復活の出来事です。イエスの事柄を聞くとはどういうことでしょうか。

主イエスの十字架と復活の出来事を聞く。その出来事がわたしのために起こった出来事であると聞く。その出来事がわたしを思うお方の出来事であると聞く。つまり、わたしの記憶として留めることです。わたしの救いの記憶として留めることなのです。その記憶があるとき、アウグスティヌスが言ったように「あなたはわたしの記憶のうちに住んでいる」のです。十字架と復活の出来事がわたしの記憶のうちに住んでいるお方の記憶として留まる。これを信仰と呼ぶのです。

わたしたちは自分が確認することを優先しています。わたしが確認することは、視覚だと思い込んでいます。見ることだと思い込んでいます。しかし、先ほど言いましたように、視覚ではなく、わたしの記憶の中で確認するのです。それは視覚という一つの感覚に依存することではなく、五感すべてで出来事を経験するということです。ですから、イエスは他の人に言うなとおっしゃるのです。わたしの経験はわたしの経験なのだから、他の人に言ったところで伝わるものではないのです。それよりも、わたしたちが人に伝えるべきは、自分が信じているお方がわたしに何をしてくださったかという証です。どのようなときに、わたしは神の言葉によって救われたかという証です。それこそが証なのです。わたしはこのように上手く行きましたというのは証でも何でもないのです。神がわたしを動かし、わたしを用いて、このような結果へと導いてくださいましたということが証なのです。だからこそ、ペトロたちにイエスは命じるのです。「今見たことをだれにも話してはいけない」と。そして、話しても良いときが来るのですが、それは「人の子が死者の中から復活する」ときなのだとおっしゃっています。

イエスが復活したときには、話しても良いとおっしゃっているのですが、そのとき話すべきことはすごいことを見たということではなく、この山上の変容の出来事が何を語っているかを話すべきなのです。山上の変容の出来事が何を語っているかを話すということは、変容という言葉、ギリシア語でメタモルフォーという言葉ですが、この言葉の意味に従って話すということです。メタモルフォーというのは、見た目が変わることも伴っているのですが、厳密な意味は見た目ではなく、その本質的形が変わったということです。ですから、イエスの本質が現れたのが山上の変容なのです。この変容の姿は、ご復活の姿と同じですね。「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」と言われています。この真っ白に輝く姿は、ご復活の姿なのです。ということは、山の上でイエスのご復活の本質的姿が現れたということです。ですから、死んだはずのモーセとエリヤも現れて、イエスと話しているのです。このような姿を認識したのは、ペトロたちがイエスの本質とは何かを考えていたからかも知れません。その答えが変容という形で現れた。そう考えてみれば、山上の変容を転機として、イエスがエルサレムを目指して歩み始めることも理解できます。最初の受難予告も山から下りたときに語られています。これからイエスは苦難を引き受ける受難に入っていく。そのときに、山上での変容が起こった。将来現れるであろう変容したお姿に向かって、これから歩んで行くのだということです。だからこそ、四旬節の始まりの前に、この箇所を読むのです。今週の聖灰水曜日から四旬節に入ります。主のご受難を覚えて歩む期節にはいります。主が目指しておられるところは復活のいのちであることを思い起こしながら、四旬節を過ごしていきましょう。このわたしのために十字架の苦難を引き受けてくださったお方と共に歩む記憶を、わたしの心に刻む四旬節でありますように。

祈ります。

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