「神の喜びを伝える」

2024年2月18日(四旬節第1主日)
マルコによる福音書1章9節-15節

喜びはどのように見えるでしょうか。イエスが天の声を聞いたのですが、「わたしの心に適う者」と訳されている言葉は、「わたしはあなたの内で喜ぶ」が原意です。イエスの内で喜んでいる神の喜びをイエスはどうやって知るのでしょうか。どうやって見るのでしょうか。これが不思議なところです。

「ああ、神さまがわたしの内で喜んでおられる」と感じるのでしょうか。どうやって、神さまの喜びを感じるのでしょうか。みなさんの中で、神さまの喜びを感じた人がいますか。「ああ、今わたしの内で神さまが喜んでおられる」と感じた人がいますか。誰も感じないでしょう。しかし、祈りのとき、ある光を感じることがあります。そのとき、わたしは神の喜びを感じます。その祈りが聞かれていると感じます。そのような祈りをしたことがありますか。その祈りは、わたしの魂に喜びを与える祈りです。わたしの魂に平安を与える祈りです。イエスは天からの声を聞いて、祈りを聞いてくださっている父なる神を知ったのです。そして、神の喜びに従って、出かけて行った。神の喜びを人々に伝えるために出かけて行った。

イエスが荒野で過ごす間も、獣が一緒にいたと記されています。獣が一緒にいても、イエスの平安は乱されることはなかった。いや、獣も平安であった。イエスが平安だったからです。イエスが神の喜びを生きていたからです。だからこそ、多くの人々がイエスに出会って、平安を生きる道に導かれた。イエスによる神の喜びを伝える働き。それが宣教と言われているのです。

宣教するという言葉は、宣言するという言葉です。神の喜びを宣言したのがイエスの宣教なのです。それは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」という言葉でした。すべてを満たしている一瞬時がそこにある。神の国の方が近づいてくださっている。あなたがたを包んでくださっている。あなたがたが神の国に近づくのではない。神の国が近づいてくださっているという方向にあなたがたの考え方を方向転換しなさい。そうすれば、神の喜びがあなたがたの内で満たされる。イエスはこのように宣言したのです。それは単純に言えば、神を受け入れなさいということでした。

わたしたちは、神を受け入れているでしょうか。神を信じているでしょうか。神に祈りながらも、信じて祈っているでしょうか。如何なることも乗り越えさせる力が働いているのに、受け入れているでしょうか。わたしが何とかしなければと躍起になってはいないでしょうか。その考え方を捨てて、方向転換して、神の方に向き直りなさいとイエスは宣言するのです。

いやいや、そうは言っても、何もしないでただ待っていれば良いのだろうか。天は自ら助ける者を助けるのではないのだろうか。何もしない者を助けることはしないのではないだろうか。このようにわたしたちは考えます。この考え方は、まず人間が行い、神が援助するという考え方です。この方が、わたしたちには分かり易いように思えます。何もしないで、祈るだけで良いのかと思います。ところが、わたしたちが行うこと、わたしたちが考えること、それが諸悪を生み出してしまうということを、わたしたちは忘れているのです。今日の第一日課の少し前、創世記のノアの方舟の最後に、方舟から出て祭壇を築いたノアが神に献げた献げ物の香りをかいで、神はこう言っています。「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」と。人間の心に湧き上がってくる思いは、悪だとおっしゃっています。わたしたちが考えることは悪なのだと言うのです。そうであれば、わたしたちが祈ることもわたしの悪しき思いではないだろうかと考えてしまいます。しかし、祈りは神の声を聞くことです。神の声を聞いて、自分のはやる思いを静めることです。はやる思いは悪だと受け入れることです。そのような祈りをしているならば、わたしたちは揺さぶられることなく、平安を生きることができます。そして、なすべきことをなすことができます。

イエスが「自分を捨て、自分の十字架を取って、わたしに従いなさい」とおっしゃった言葉があります。「自分を捨てる」という言葉は、「自分を否定する」という意味です。自分を否定するというのは、自分のうちに起こってくる思いを否定することです。自分中心でしか考えることができないわたしを否定するということです。そのとき、わたしたちは神の喜びを生きることができるのです。神との平和、平安を生きることができるのです。ところが、このように宣言したイエスが十字架に架けられて、殺されます。自分たちが築いてきたユダヤ教の体制を破壊されると思った指導層たちがイエス殺害を実行したからです。そのような彼らの思いをご存知で、なおイエスは十字架を引き受けてくださった。そのイエスの思いは神の意志がなるためにという思いでしょう。つまり、神の意志に従う思いなのです。

わたしたちの思いは、わたしの思いが神の意志でありますようにという思いです。わたしが願っていることが神の意志でありますようにと思う心には、わたしに都合の良いことが神の意志でありますようにという願いがあるのです。そのような思いが、ユダヤ教指導者たちの思いだったでしょう。そして、イエスは十字架に架けられた。イエスの思いは、人間的には十字架を避けたいのだけれど、神の意志がなるために引き受けますという思いです。それがゲッセマネの祈りです。イエスのこの祈りと同じように、わたしたちも祈るべきなのです。なかなか難しいと思いますが、自分を捨てて、自分の十字架を取るようにとおっしゃるイエスに従うということはそういうことです。

しかし、それが神の喜びを伝えることになるのだろうか。わたしは自分が苦しむことを引き受けるとしても、喜びはないと思えます。苦しみを喜ぶなどできないと思います。たとえ、パウロが言っているとしても、苦難をも恵まれているなどと思えない。イエスが十字架を引き受けてくださったのはわたしのためだと分かっているけれど、わたしは引き受けたくない。わたしの罪深い心が拒否しているのだとは頭では分かるけれど、苦しみだけは拒否したい。そう思うものです。そこから脱け出すことができないものです。このような自分を見詰める人は、自らの哀れさを思うでしょう。どうしようもない自己中心的な人間がわたしなのだと思うでしょう。しかし、そのあなたのために十字架を引き受けてくださったお方を信じるあなたは、少しずつ、少しずつ変えられていくのです。イエスの十字架のお姿によって変えられていくのです。

心許ない自分であることを受け入れているあなたのうちで神は喜んでおられる。罪深い自分であることを認めているあなたのうちで神は喜んでおられる。情けない信仰者だと思っているあなたのうちで神は喜んでおられる。それが、イエスが聞いた天からの声の意味です。イエスは、わたしたち人間を代表して聞いてくださったのです。わたしたちと同じようにヨハネから悔い改めの洗礼を受けたイエスのうちで神が喜んでおられるのです。わたしたちと同じように罪を告白して洗礼を受けたイエスのうちで神が喜んでおられるのです。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」と喜んでおられる。わたしたちが受けた洗礼は、キリストと共に死に共に復活する洗礼です。この洗礼を受けたあなたのうちで神は喜んでおられるのです。この喜びを生きている人は、神を信頼しています。神を信頼している人は、平安を生きています。慌てふためくことなく、ただ安らかに信頼している。その人のうちで、神は喜んでおられる。あなたは、わたしの大切なあなただと神が喜んでおられる。あなたが平安であることがわたしの喜びなのだと神はあなたのうちで働いてくださっている。そのようなところへと導かれているあなたは神の子イエス・キリストと同じ神の子として神の養子になっているのです。

イエス・キリストの体と血に与る聖餐は、あなたが神の養子であることを更新する神の賜物です。イエスご自身があなたのうちに受け入れられる聖餐を通して、あなたはいかなることも受け入れる神の子として生きる者とされるのです。祈ります。

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