「神の熱意の復活」

2024年3月3日(四旬節第3主日)
ヨハネによる福音書2章13節-22節

熱意というものはどこに宿るのでしょうか。どこにあるのでしょうか。誰が熱意を持っているのでしょうか。わたしたち一人ひとりにも熱意が宿ることがあります。熱意というものが熱心な心だとすれば、熱心に何事かに集中している姿は熱意ある姿です。この熱意を起こしているのは、目の前にある興味ある物事でしょうか。それとも、その物事に関心を示すように造られているその人の魂でしょうか。ある人が熱心になる物事に誰でも同じように熱心になるということはありません。一人ひとりに熱心になる要素や材料というものは異なっています。ということは、異なるものに関心を示すように、それぞれが造られていると言えます。この関心を示す魂を造られたのは神ですから、一人ひとりに熱心を与えてくださるのも神です。そこで、よくよく考えてみると、わたしたちは神に動かされていると言えます。神がわたしの魂を造り、わたしが関心を示すような親和性というものを与えてくださっているのです。だから、わたしは他の人と違うことに関心を示し、熱意をもって取り組むことができるのです。この熱意も神さまが与えてくださるものです。

今日の聖書で述べられている「熱意」という言葉はゼーロスというギリシア語です。この言葉は、ゼロテ党というイスラエル復興運動を推進しようとした「熱心党」と言われる団体にも使われています。彼らも熱意をもって、イスラエルを再び偉大な国家にしようと取り組んでいたのです。それは、国としてのイスラエルの復興、ローマからの独立でした。しかし、今日の聖書で語られている「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という言葉が語っているのは、神の家である神殿を思う熱意のように訳されています。もちろん、神殿再建を願うということは建物を建てようとする熱意でしょう。しかし、その根幹にあるのは神殿によってイスラエルの権威が見える形で示されることを願うということです。ところが、イエスを食い尽くした熱意というものは、そのような見える形のものを建てることではありませんでした。イエスの言葉に対する人々の反応を見ると、建物に対する熱意と受け止めているようです。ところが、イエスの応答の言葉は「三日で建て直す」ということでした。これはイエスの復活を指していると言えます。それで「イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである」との注釈が付けられています。しかし、それでもなお、イエスの体という見える形の体の復活を意味しているのでしょうか。果たして、イエスがおっしゃった三日で建て直すものとはイエスの体だけのことでしょうか。

先ほど見ましたように、熱意というものを神が起こし、神が人間に与えるものであるとすれば、ここで言われている「あなたの家の熱意」という言葉が示しているのは、あなたの家である神殿に宿っている熱意、神殿を神殿としている熱意のことではないでしょうか。そうであれば、イエスが三日で建て直すというのは、神の家に宿っている熱意のことでしょう。その熱意は、一人ひとりの信仰を新たにする熱意であり、信仰者が起こされることでしょう。このような熱意は、建物のような形ではなく魂を動かすような力だと言えます。

新共同訳で訳されている「神殿」という言葉は、日課の中に二つあります。最初に「神殿の境内」と訳されている言葉があります。これをヒエロスと言います。神殿とその周りの神殿域全体を表す言葉です。イエスが三日で建て直すとおっしゃった「神殿」はナオスという言葉で、至聖所、聖なる場、聖域のことです。この礼拝堂で言えば、神が臨在し、顕現する場である十字架と聖卓の部分です。エルサレムの神殿にはこの聖域、至聖所が神殿の奥にあって、そこに神が臨在すると言われていました。この聖域は、神殿の中心である魂の部分なのです。この魂をイエスは三日で建て直すとおっしゃったのです。

もちろん、イエスが神の臨在の場所を建て直すのではなく、その魂である信仰的精神を復活させるとおっしゃったと考えるべきでしょう。神の臨在の場であるナオスに神の家の熱意が宿っているのです。その熱意に食い尽くされたイエスは、神の家の熱意に促されて、神殿域で商売をしていた人たちを追い出したと言われています。神の家は商売のためにあるのではないとイエスは彼らを追い出したのです。

神の家は神の熱意が宿り、人々が神の熱意に触れて、押し出されていく場なのです。それは、わたしたちの礼拝にも言えることです。礼拝において、わたしたちは神の言葉に促されて、出かけていくのです。神の熱意に触れて、心を新たにされて、出かけていく一人ひとりの魂を神が守ってくださる。それが礼拝においてわたしたちが経験することです。エルサレムの神殿もその神の熱意が宿っている場だった。ところが、当時のエルサレム神殿は商売の場所と化していた。そこにあるのは商売への熱意であって、神の家の熱意とはかけ離れた人間的な熱意でしかなかったのです。そのようになってしまった神殿の真実の魂が再び起こされるようにとイエスは願った。それは、神の意志に促されて行ったことでした。ところが、イエスの行為が神殿を冒涜していると受け止められることになりました。神殿によって自分たちの支配体制を保っていたユダヤ教指導層たちがイエスを殺害しようと考えるに至ったのです。そのような意味では、イエスは神の家の熱意に食い尽くされて、殺害されたと言えるかも知れません。

それでもなお、イエスが食い尽くされた熱意は、父の家の中心に宿る熱意でした。一人ひとりの祈りを聞くと言われた神の熱意でした。エルサレムの神殿を最初に建てたのは、ダビデの息子ソロモンでした。ソロモンは神殿建築に際して、列王記上8章27節以下でこう祈っています。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。」と祈っています。列王記上8章では長い長い祈りが献げられていますが、神殿は神がご自分の民の祈りを聞き届けてくださる場であると祈っています。つまり、献げ物のための商売のことなどは何一つ祈られていないのです。ただ祈りの場である神の家を語っています。この祈りと祈りを聞いてくださる神こそが、神殿の魂、聖域、至聖所なのです。そして、この祈りを献げる魂が集められることによって、神殿が神殿とされていくのです。このような祈りの場を回復することがイエスの願いでした。そのために、イエスはいのちを献げてくださった。わたしたちが祈る祈りが真実の祈りであるようにといのちを献げてくださったのです。イエスの体が復活させられるとき、イエスを信じる者たちの祈りが復活するのです。イエスを信じる者たちが献げる祈りが、神の熱意、父の家の熱意に押し出されて献げられる祈りとなっていくとき、イエスがおっしゃる三日で建て直す神殿がそこに存在するのです。

使徒パウロはコリントの信徒への手紙一3章16節で語っています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」と。あなたがたキリスト者一人ひとりは神の霊が宿る神殿なのです。あなた自身が神の熱意が宿る神殿であるようにとイエスは十字架を引き受けてくださった。このお方の熱意は、神の家の熱意です。このお方の復活は、神の熱意の復活です。このお方の十字架は、神に向かう熱意の復活を促す力、神の力の言葉なのです。

四旬節を歩むわたしたちは、祈りを軽視しないようにしましょう。祈りこそ、神がわたしたちに望んでおられるものです。真実に祈りを献げる魂を神は顧みてくださいます。真実な祈りには光が伴います。神の光が見えるような祈りを献げるとき、わたしたちは揺り動かされることなく、神に全面的に信頼して生きることができるのです。神との平和を生きる魂が復活するようにと十字架を引き受けてくださったイエスに感謝して、祈りの熱意が復活するように祈っていきましょう。今日、共にいただく聖餐は熱意に食い尽くされたイエスご自身がわたしのうちに入ってくださる出来事です。あなたのうちで、神の熱意の復活であるイエスが生きてくださいます。あなたもまた神の熱意の復活に与って、真実に生きることができますように。

祈ります。

croawm

 

 

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