「光の許に来るために」

2024年3月10日(四旬節第4主日)
ヨハネによる福音書3章14節-21節

高く上げられるということは、わたしたちの世界では良いことです。誉め称えられること、名誉を与えられること、地位が上がることを意味しています。今日の日課で「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」という言葉にある「上げられる」という言葉の原文は「高く上げられる」ことです。ルカによる福音書で羊飼いたちに現れた天使の歌に出てくる「いと高きところに栄光、神にありますように」の「いと高きところ」と同じ言葉なのです。だとすれば、荒れ野で上げられた蛇も人の子も神の栄光を与えられているということになります。

しかし、人の子が高く上げられることが意味しているのは十字架です。その姿は、わたしたちの感覚から言えば、最低の姿です。一方、民数記21章に記されています荒野の青銅の蛇の出来事では、荒野の炎の蛇に噛まれた者がそれを見上げるといのちを得たと記されています。ということは、人の子もまた青銅の蛇と同じく見上げた者がいのちを得るために高く上げられるということです。

しかし、見上げる者がいのちを得るために、高く上げられることが、人の子が十字架に架けられることであるならば、十字架の死の姿を見上げることによって、人間はいのちを得るということです。それが神の栄光であり、誉め称えられる出来事であると言われているのです。神は、独り子を十字架に引き渡すことによって人間にいのちを与えるようにされた。これが神の栄光だと言われているわけですが、十字架に架けられた姿を栄光だと見る人はいないでしょう。むしろ、悲惨な死の姿しか見ることができない。それが十字架の死なのです。それにも関わらず、イエスの十字架の死に神の栄光を見る人がいる。だとすれば、神の栄光とはこの世の価値観とは正反対のことだということでしょうか。いえ、正反対というのではなく、この世の価値とは次元が違うということです。この世の価値の次元では見ることができないのが神の栄光だということなのです。それが「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。」という言葉が語っていることなのです。この世は闇を好む。それは、この世の光は闇だということでもあります。この世の人間にとっては闇の方が光に思えるわけで、そこに価値観の違いがあります。それは逆転した価値観ということではなく、次元の違う価値観だということです。なぜなら、光と闇は並列ではないからです。

わたしたちは光と闇は並列的なものであって、光と闇とは対抗し合っていると思っています。ところが、聖書の世界の中では光は神であり、闇はサタンなのです。そして、サタンは神の世界の中でしか活動できないのです。なぜなら、サタンは自分の世界を創造することができないからです。神が造った世界を自分に都合の良い世界にしようとすることしかできないのがサタンなのです。結局、サタンは神の支配の中でうごめいているだけです。闇の世界は光の世界に対抗しているようでいて、対抗できないのです。ヨハネによる福音書1章5節にありますように「暗闇は光を理解しなかった。」からです。この言葉は「闇は光を捉えなかった。」という意味です。理解できないということは捉えることができない、把握できないということなのです。それゆえに、闇は光を支配できないのです。「光よりも闇の方を好んだ」という人間たちが存在するのは、闇の方が自分を隠してくれるからです。自分の価値観や考え方が明らかになる光の許に来ることができない。それは、「その行いが悪いので」ということだと言われています。

さらに20節では「悪を行う者は皆、光を憎み」とも言われています。光を憎むと言うのです。闇の方を好むということからさらに進んで光を憎むことになる。それが「悪を行う者」なのですが、それは自分が悪を行っていると分かっているからです。悪を行っているということが分かって、光に照らされることを憎むのです。反対に、「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」とも言われています。ということは、義しいことを行っている人は光に照らされても平気だということのように思えます。不正を行っていないので平気なのだと。ところが、悪いことを行っていても悪いことだと認めて、正直に話す人もまた真理を行っている人になるわけです。なぜなら、真理という言葉が示しているのは、隠れなくあることですから、自分の悪を隠さないということも含まれるのです。悪を行って、隠さないで、悪を行ってしまいましたと神に告白する人は、真理を行っていることになるのです。

使徒パウロが言うように、わたしたち人間には義しい人は一人もいないのです。わたしたち人間の思いは幼いときから悪しか思わないと創世記では語られています。そのような人間が、自分が義しいことをしていると思っているときにも、自分の思いが優先されているならば悪が行われているのです。そのように認識している人は光の許に来ている人です。では、光の許に来るためには何が必要なのでしょうか。もちろん、自らの悪を認識していることが必要なのですが、そのように認識するためには何が必要なのでしょうか。どうしたら、自分の悪を認識することができるのでしょうか。

ここで荒野の青銅の蛇と同じように人の子が高く上げられることが必然であると述べられている言葉をもう一度聴いてみましょう。青銅の蛇の出来事が記されている民数記21章9節では、荒野の炎の蛇に噛まれて死にそうになっている人が、青銅の蛇を見上げるといのちを得たと言われています。自らが死にそうであるという認識に至った人が青銅の蛇を見上げたのです。だとすれば、自分の悪を認識するためには、自分が死にそうであり、いのちを失いそうになっていることを認識する必要があることになります。体を動かすこともできず、苦しい状態に陥っているならば、自分は死にそうなのだと認識することはできます。しかし、イエスの十字架を見上げる人は、身体的な死に至ろうとしているわけではないでしょう。そうすると、体は苦しんではいない。苦しんでいるのは心でしょうか。それでも、自分が求めているこの世の光が闇であるとしても、その人はこの世の光によって慰めを受けているでしょう。そうすると、この世の光が失望を与えない限り、闇にしがみつくことになります。そういう人は信仰には至らないということです。では、どうしたら良いのでしょうか。

人間自身がどうにかすることができないのが、信仰の事柄です。信仰はわたしたちのうちにおける神の活き活きとした活動だとルターは言いましたが、わたしから生まれないのが信仰なのです。では、神の活き活きとした活動を受けるにはどうしたら良いのでしょうか。もちろん、受けるのですから、受けるしかないのです。与えるお方の意志に従順に従うしかないのです。ただ、与えてくださるご意志を受け入れるだけです。それが真理を行っている人と言われているのです。自分の力を捨てざるを得ないところに置かれた人。自分の力に頼ることができないことを知った人。自分の力に絶望した人。そのような人が真理を行っている人だと言えます。なぜなら、わたしたち人間は塵に過ぎないということが真理だからです。この塵に過ぎない人間のために、イエスは光としてこの世に来てくださったのです。このお方を受け入れることが信じるということです。

荒野の青銅の蛇を見上げたところで癒されるかどうか分からないと思う人もいたでしょう。そのような人は見上げなかった。しかし、それでもなお、神の言葉を素直に受け入れて見上げた人は、信仰を起こされたのです。そして、癒された。これと同じように、自分に絶望し、救い主イエスの十字架を見上げるようにされる人は、見上げるようにと語られている言葉を信じて見上げる。そして、永遠のいのちを得るのです。

永遠のいのちとは、神とイエス・キリストを認識することだとヨハネ福音書は17章で語っています。永遠のいのちというものが、わたしを知ってくださっているお方を認識することなのであれば、唯一の神とイエス・キリストとがわたしを救い出してくださると認識することそのものが永遠のいのちだということになります。そのように神とイエスとを救い主として見上げる人は永遠のいのちの中に入っているのです。それが、光の許に来るということです。

光の許に来るためには、自分の力に絶望することが必要なのです。そして、神の言葉に信頼するようにされる必要がある。神によってそのようにされていると受け入れる人は幸いな人です。なぜなら、自分からそのようになる人は一人もいないからです。自分に絶望して、イエスの言葉を聞く耳を開かれ、信じて、その言葉の中に自分自身を投げ入れ、委ねるようにされた人は幸いな人です。そのとき、あなたはあなたを救う光として来てくださったお方の十字架を見上げる者とされているのです。あなたは真実の光、永遠のいのちに包まれて生きていく者とされるのです。あなたに永遠のいのちを与えるために、十字架を引き受けてくださったお方の光を受け入れて、光であるイエスと一つになって生きていく者でありますように。

祈ります。

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