「魂を見守る人」

2024年3月17日(四旬節第5主日)
ヨハネによる福音書12章20節-33節

見守るという在り方は、見ているだけのように思いますね。何も手を出さないで、見ているということが見守りだとわたしたちは考えます。それはとても大切なことです。手を出してしまうと、わたしの考えや判断を押しつけることになってしまうからです。以前、サタンは手を出さないで指示するだけで、責任も負わないと言いましたが、そのようなサタンの在り方と見守る在り方は同じように思えます。ところが、手を出さないということは、口も出さないことです。見守っているものそのものが動いていくのを見ているだけです。でも、どこかに逸れそうになると口を出すことがあるかも知れませんね。その場合は、行くべきところを知っているので、そこから逸れないように「あ、道が違うよ」などと口を出すことはあるでしょう。しかし、これはサタンのやり口とは違います。行くべきところがどこであるかを分かっているということは、全体が見えているから言えることです。全体が見えていないならば口を出せないでしょう。見守っているということは全体が見えているということなのです。

どうして「見守る」という話をしたかと言いますと、今日の日課の25節でこう言われているからです。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と。「それを保って永遠の命に至る」という言葉の原文はこうなっています、「永遠のいのちへと、見守るであろう、それを」。その人の魂が永遠のいのちへと至るように見守るであろうという意味です。そうであれば、自分の魂が永遠のいのちへと至る道を進んでいくように見守っている人は、自分の魂を憎んでいるということになります。この場合、自分の魂を見守るということはどのように見守るのでしょうか。

自分の魂を見守っているわたしというのはわたしの霊です。聖書の人間観によると人間は体と霊と魂からなっているのですが、体は身体活動を行っています。霊は精神活動を担当しています。魂はその人自身です。精神活動を担っているその人の霊が魂であるその人自身を見守っているというようなことが語られているのです。つまり、わたし自身を見守るのが霊的な働きであるということです。精神活動によって、自分自身が自分自身であることを守ると言っても、何かをするわけではなく、わたし自身の魂が本来歩むべき道から逸れてしまわないように見守ることが霊的な活動なのです。そのような活動は、神の霊の働きと一つになることによって強められます。でも、魂に命じるわけではなく、魂が逸れているときに教えるのが霊的な働きだと言えます。そのように働くわたしの霊は、神が語られた言葉に従って、魂の行く末を見守るのです。

今日、イエスに会いたいと願い、フィリポのところにやって来たギリシア人たちも、彼らの霊的な働きがあって、自分の魂にとってイエスに会うことが必要だと思って、やって来たわけです。彼らの霊も、永遠のいのちへと自らの魂を見守っているのでしょう。だから、イエスに会う必要があると思ったのです。ヨハネによる福音書では、永遠のいのちとは神とイエス・キリストを認識することであると述べられていますから、イエスに会うことで永遠のいのちへの道を歩むことができると、ギリシア人たちの霊は理解しているのです。もちろん、明確に理解しているというよりも、おぼろげながらそう感じていた。それで、イエスに会いに来た。そのような人たちがいたということで、イエスは魂を見守る人たちのことを語ったのです。

イエスはギリシア人たちの求めをフィリポから聞いて、一粒の麦の話をします。麦の穂にある麦の穀粒は穀粒のままでいるならば、実を結ぶことはありません。しかし、穀粒であることを捨てて、地に落ちて穀粒としては死ぬ。死ぬことによって、実を結ぶ種になるというわけです。そのような意味で、自分を愛する者と憎む者についてのイエスの言葉が語られています。だとすれば、地に落ちて死ぬ麦の穀粒はイエスのことだけではなく、一人ひとりが自分を憎むことのたとえでもあると言えます。別の福音書では、「自分を捨てる」、「自分を否定する」と言われていたことが、ここでは「自分を憎む」と言われ、地に落ちて死ぬ穀粒であることで実を結ぶと言われているのです。「自分を捨てる」ということは「自分はこのようでなければならない」と考えている「自分を保つ」のではなく、自分がどのようになるのかを見守るということでもあるでしょう。だからこそ、イエスは「自分の魂を永遠のいのちへと見守る」ということを語っておられるのです。

自分の魂が永遠のいのちへと行き着くように見守る人の霊は、神の霊と一つになっている霊です。魂を見守りながら、自分の魂に対して「お前は違う方に向かっているぞ」と注意する。このような働きができる霊は、神の霊と一つになった霊です。使徒パウロが言うように、神のことを知るのは神の霊ですから、わたしたちが神のことを知り、イエスのことを知るのは、神の霊がわたしの霊と共に働いておられるからなのです。

そう考えてみれば、ギリシア人たちがイエスに会いに来たということそのものが神の霊の働きだと言えます。神の霊の働きを素直に受け入れ、霊の導きに従って、エルサレムまでやって来たギリシア人たち。彼らのうちに働いている神の霊の働きを見て、イエスはご自分の栄光のとき、十字架のときが来てしまっていることを知ったのです。この栄光のときは、もちろんイエスの十字架の死ですから、イエスが地上のイエスとしての在り方を捨てて、死ぬことになるわけです。その死が麦の穀粒の死です。それはまた、イエスという個としてのいのちを捨てることですから、自分という個を捨てて、神が造ってくださる新しいいのちに生きるということでもあるのです。イエスの十字架は新しいいのちに生きるための地上の命の死なのです。だから、麦の穀粒の死と同じだと言われているのです。

イエスはご自分のことをいのちであるとおっしゃっていますから、神とイエスご自身が永遠のいのちなのです。ギリシア人たちは永遠のいのちへと自分の魂を見守って、イエスの許へとやってきたのです。ギリシア人たちがそのような在り方へと進んでやって来たことを見たイエスは、ご自分の栄光のときが来てしまっていると知った。そして、新しいいのちへの扉を開いたのです。

新しいいのちへの扉を開くためには、イエスご自身が個としてのいのちを捨てる必要がある。それはまた、イエスを信じる者たちが同じように個としてのいのちを捨てるための先駆けとなることでもあったと言えます。それゆえに、麦の穀粒の話は、イエスの十字架であると共に、イエスを信じる者たちの歩みでもあると言えるのです。そう考えてみれば、ギリシア人たちの来訪は神によって起こされたしるしだと言えるでしょう。一人ひとりが自分の魂を見守る人として生きるために、神はギリシア人たちを用いて、イエスにしるしを与えられた。イエスは、地上にあって、神が示すしるしを見ておられる。十字架という神が示す方向へと導かれている自分の魂を見守っておられる。素直に、神の啓示に従い、一人ひとりの魂が永遠のいのちへと向かうように見守っておられる。それが十字架を引き受けるイエスなのです。

あなたがイエスに従うとすれば、あなたの魂を見守るあなたの霊が神の霊の働きの下で導かれているのです。神の霊の働きに従うものでなければ、イエスに従うことはできないのです。自分の力、自分の思いで、自分の計画でイエスに従おうと考える人は違う道を歩みます。永遠のいのちへと自分の魂を見守ることなく、自分が考える自分の世界へと魂を動かそうとする。信仰によって、神の霊の働きに与っている人は、神に導かれる魂を見守っているのです。自分の思いとは違う方向だと思えても、そのように考えてしまう自分を憎んで、神の霊の働きに従うのです。そのために、イエスは十字架を引き受けるお姿をわたしたちに見せてくださったのです。

十字架を仰ぐことによって、わたしたちはイエスの霊の働きに与るのです。そのために、イエスはご自身の体と血をわたしたちに分け与えてくださいます。イエスの体と血をいただくことで、わたしたちはイエスの霊の働きを自分のうちに受け入れる。そして、イエスと共に永遠のいのちへと向かう自分の魂を見守るのです。あなたの魂のためにご自身を献げてくださったイエス・キリストの力があなたのうちで働きますように。

祈ります。

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