「道は外にある」

2024年3月24日(枝の主日)
マルコによる福音書11章1節-11節

道というものは家の外にあります。家の中には道はありません。家の中を道が通っているならば、それは家ではありませんね。いろんな人が家の中を通っているなら落ち着きませんね。道は家の外にある。さらに、道は町の外に続いている。道は何のためにあるのでしょうか。どこかに行くためです。家から離れているどこか、町からも離れているどこかです。知り合いの家に行く、別の町に行くということもあるでしょうし、別の国に行くという道もあります。道は今いるところから離れて、どこかに行くために存在しているのです。

子ロバが縛り付けられていたのは、家の外の表通りに出る戸口の外でした。新共同訳ではこの「外に」という言葉が省かれていますが、原文にはあります。「戸口のところに、外に、表通りに」となっています。あえて「外に」と記されているということは大事なことです。表通りが外にあるということをあえて言う必要はないと思えますが、あえて記しているのです。外に縛られている子ロバ、その子ロバに乗るイエスは、外に出て行くわけではなく、エルサレムに入っていくのです。入って行った先には、十字架の場所、ゴルゴタが町の外にあるのです。町の中に入り、町の外で、十字架に磔になるイエス。子ロバが縛り付けられている外は十字架のイエスを象徴しているとも言えます。そう考えてみれば、子ロバを連れてくることをとがめられたときの言葉もイエスの十字架の意味を示しているのでしょう。「主がお入り用なのです。すぐにここにお返しになります。」と言うように命じたイエスは、ご自身が主のご用のために用いられることを語っているのです。では、「すぐにここにお返しになります」という言葉も同じなのでしょうか。

イエスは主のご用を引き受けて十字架に架けられ、死んで葬られ、三日目に復活なさった。それはすぐにここにお返しになるということだったわけです。そして、「ここに」と言われている場所は、「外」なのです。子ロバもイエスも、内なるところに返されることはなかった。外に返されたのです。外とは、利害関係が発生しない公共の場です。家や町は利害関係が発生する場所です。ところが外にある道は利害関係が発生しない公共の場です。どこにも自分の所有がない場、それが公共の場です。イエスも子ロバも公共の場に返された。弟子たちだけのイエスではないし、飼い主だけの子ロバでもないということです。

このように考えてみると、わたしたちキリスト者は利害関係を離れて生きる存在であるということになります。イエスがおっしゃった自分を否定して、自分の十字架を取って、わたしに従いなさいという言葉が意味しているのも、利害関係を離れることでしょう。誰にも縛られることなく、誰をも縛ることなく、ただ一人の人間として、神の前における人間として生きること。それがイエスの復活が語っていることです。そして、イエスの十字架は、イエスという地上的人間関係に縛られた存在が死ぬことを意味していると言えます。十字架の死を通して、イエスは地上的人間関係に縛られることなく、町の外で一人ひとりに出会い、一人ひとりを解放し、一人ひとりのいのちを回復するお方として生きている。

子ロバに乗るイエスに従う人たちもエルサレムという町の外にある道を通る。その道に自分の服や自分で取ってきた木の枝を敷いた。その上をイエスは通って行く。一人ひとりの心を献げた服や枝の上を通って、エルサレムに入っていくイエスは、その人たちの心を携えて、エルサレムに入る。そこから、町の外に追い出され、十字架に縛り付けられ、殺され、復活する。町の外で復活するのです。

エルサレムに入っていくイエスに従う群衆は歌っています。「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と。イエスはご自分の名によって来たのではありません。神の名によって来た。自分の名誉のために来たのではありません。名誉を捨てるために来た。誉め称えられるのはイエスを遣わした主なる神。イエスは誉め称えられることなく、町の外に追い出されて、殺害される。このイエスの姿を象徴する言葉が、群衆によって歌われたのです。それは、我知らず彼らが歌った歌だった。町の外で、道の上で、歌われた歌。誉め称えられるべきは神であると彼らは歌った。「いと高きところにホサナ」と。

この「ホサナ」というヘブライ語は「わたしたちをお救いください」という意味です。イエスを派遣した主なる神に「わたしたちをお救いください」と歌っているのです。この讃美の歌は、人間を誉め称える歌ではありません。人間の名誉や国の名誉を回復してくれという歌でもありません。ただ神にのみ栄光があるようにとの歌です。わたしたちを救うのは神のみだという歌です。このような歌を歌う群衆は、神の霊によって歌っているのです。彼らの思いではなく、神のご意志が歌わせているのです。その歌を聞きながら、イエスはエルサレムに入って行かれた。そして、そこからまたベタニアへ出て行ったと記されています。イエスのいるべきところは、町の外なのです。町の外にこそイエスは存在している。イエスの道は外にある。外にこそ生きる道がある。これが今日の聖書が語っていることです。

わたしたちは、自分が安心できる場所を持っています。それは内なる場所です。外は不安に満ちている世界だと考えています。ところが、外にこそ、真実の場が存在している。わたしの場所がないところにこそ、神の場が存在している。外なる場こそ、誰にでも開かれている場。縛られることのない場は外にある。町の中で縛られたイエスは町の外で解放される。復活も外の出来事。墓の外に復活は現れる。

道は外にある。外はどこにでもある。わたしたちが人間関係のしがらみから離れているところ、人間関係の外に道がある。子ロバが縛り付けられているのは町の中。しかし、外の表通りに面したところに縛り付けられていたので、弟子たちも見つけることができた。町の中にも外があった。人間たちに縛り付けられていても、解放することができる外が存在していた。これを象徴しているのが子ロバの解放なのです。

わたしたちの解放のために、イエスは十字架を引き受けてくださった。ご自分が十字架に縛り付けられることを引き受けてくださったイエスによって、わたしたちは解放されていくのです。そのために、イエスは町の中に入っていく。エルサレムに入っていく。入って行って、一人ひとりを解放する十字架に架けられる。このお方は、神の派遣のご意志に従って、外から町の中へと入るのです、道を通って。あえて、縛り付けられるのです、道を開くために。このお方が引き受けてくださった十字架こそが、わたしたちを解放するための真実の道だったのです。

イエスは、外へと出て行くお方。外において、人々を解放するお方。わたしたちもまた、イエスに従うのであれば、縛り付けられていたところから出て行こうではありませんか。あなたが縛り付けている存在がいて、あなたを縛り付けている存在がいる。互いが縛り合っているような世界。町の中から出て、外の広々とした世界に出て行こうではありませんか。そのとき、あなたは何者でもない者として生きることができます。地上の栄誉、地上の地位、地上のしがらみを捨てて、神さまに造られたままのあなたを生きることができます。イエスの十字架に従う存在は、自分を否定するのだと言われていた言葉を思い起こしましょう。自分を否定して、自分の十字架を取る人は、外にある道へと出て行くのです。行き着く先は神の国。神の国を目指して歩き続ける人は、地上の縛りあう生き方を捨てるのです。どこにいても自分自身を生きることができるのです。誰かに支配されることもなく、誰かを縛り付ける必要もない世界に生きるのです。

その世界において、「主がお入り用なのです」という使命が与えられることでしょう。あなたを用いてご自身のお働きをなさる神によって生かされて行くのです。解放された喜びを胸に、信じるお方に従って、歩み続けていく者でありますように、十字架を仰ぎながら。

祈ります。

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