「言葉が生きている世界」

2024年3月31日(復活祭)
マルコによる福音書16章1節-8節

「あの方はここにはおられない」。思い起こす場所にはイエスはいない。墓というギリシア語は思い起こす場所という意味です。死んだ人を思い起こす場所が墓というギリシア語の意味です。そこに行って、イエスの体に香油を塗って、イエスの思い出に浸ろうとしていた女性たちの前に現れた天使は言います。「あの方はここにはおられない」と。天使が言う「ここ」とは墓のことです。墓にはおられない。イエスはどこにいるのか。それが弟子たちに伝えるように言われた言葉に語られています。

「彼はあなたがたを導いている、ガリラヤへ」という言葉です。新共同訳では「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。」と訳されていますが、「彼はあなたがたを導いている、ガリラヤへ」とも訳すことができます。導くという言葉は先に行くという意味でもありますが、先だって行くことですので、導くのです。しかも、ガリラヤと言われていますので、ガリラヤの何という町なのか分かりません。大雑把なガリラヤという地域しか天使は示していないのです。このガリラヤへイエスは導いていると天使は言うのです。そのように弟子たちに伝えるようにと女性たちに伝えます。ところが、女性たちは「誰にも、何も、言わなかった」と記されています。それなのに、弟子たちはイエスを見たのです。イエスのご復活を見た弟子たちはイエスが生きておられることを宣べ伝えることになった。これは不思議なことです。

誰にも、何も言わなかったのに、弟子たちには伝わったのです。なぜ伝わったのでしょうか。それはイエスの言葉があったからです。「かねて言われていたとおり」と天使は言っていますが、かねて言われていた言葉が弟子たちにはあったのです。おそらく、彼らはしばらくして出身地のガリラヤに戻ったのでしょう。そして、イエスと共に歩いた道を歩きながら、イエスが語った言葉を思い起こしたのです。そのとき、道を歩いているイエスを彼らは見た。先に立って歩いているイエス。自分たちを導いてくださっているイエスを見た。それは過去のイエスを思い起こしたのではなく、イエスの言葉が彼らのうちに生きるようになったということです。イエスの言葉が過去の言葉ではなく、今現在を生きる弟子たちに語り掛ける言葉として聞こえてきた。その言葉を聞いて、イエスは生きておられると知ったのです。

みなさんは神の声を聞いたことがありますか。わたしは何度かあります。こんなことを言うと、この人おかしいのではないかと思うでしょうが、わたしははっきりと神の言葉を聞きました。数えるほどしかありませんが、聞いた言葉も覚えています。どのような状況で聞いたかも覚えています。そのときのわたしの気持ちも覚えています。とても活き活きとした気持ちになりました。それまでの自分の悩みや苦しみが途端に解消するような体験でした。生きていく力をいただきました。神の言葉はわたしたちを復活させるような力ある言葉なのです。

弟子たちは、イエスの生きた言葉を聞いた。復活したイエスの言葉を聞いた。彼らを生かすイエスに出会った。彼らは生きているイエスを見た。復活したイエスを見た。それはイエスの言葉が彼らを生かした出来事でもあったのです。

復活という出来事や神の言葉を聞くという出来事は、普通の人にしてみれば、幻覚や幻聴と思われます。ところが、実際に遭遇した人にとっては、はっきりとした視覚的出来事であり、聴覚的出来事なのです。他の人も見たり、聞いたりするということはないので、独りよがりの思い込みと言われてしまいますが、本人にとっては現実の出来事なのです。

使徒パウロがダマスコへ行く途上で、まぶしい光に照らされて、馬から落ちた出来事もそうでしょう。使徒言行録の記述では三回出てきます。周りの人には声は聞こえたけれど、何も見えなかったという記述や皆が光に照らされたという記述があります。どれが本当のことなのかは分かりません。ただ、パウロ本人にとっては、光と言葉が与えられています。ガラテヤの信徒への手紙1章16節では、その出来事を神が御子をわたしに啓示したとパウロは述べています。パウロ本人の言葉から判断すれば、パウロにとっては神が啓示した出来事ですが、周りの人にとっては光や音しか分からないというような出来事です。ですから、幻聴、幻覚だと言われるのです。それでも、本人にとっては真実にはっきりと聞こえる声があるのです。パウロよりも先に復活のイエスに出会っていたペトロたちは、パウロにもイエスが現れたということを認めた同じ体験だったと言えます。それらに共通しているのは、生きている言葉の体験です。

生きている言葉と言っても、体験したことのない人には、ただの言葉だと思えるでしょう。ところが、言葉が生きているということは、聞いた本人にとっては全身を揺さぶられるような体験なのです。この体験を述べているのが、いわゆる復活体験と言われる出来事なのです。復活体験は視覚的にイエスを見たというよりも、イエスが現れて語り掛けてくださった出来事なのです。このわたしに語ってくださったという出来事ですから、見て、聞いた本人はとてもびっくりしますが、その瞬間にその人は力を受けるのです。ところが、その個々人は大抵罪深い自分を感じている人でもあります。弟子たちもそうですし、パウロもそうです。それでもなお、パウロが言うように、律法に忠実に生きているというみことばへの熱意は人一倍あった人たちです。そのような人たちが自分の罪深さも感じながら生きていた。その歩みは重い足を引きずるような歩みだったと思います。そして、彼らは祈っていた。パウロも祈っていたのです。

わたしたちは祈りを、時と場所を定めて祈りの形を取って祈るものだと思いがちです。ところが祈っている人はいつでも祈っています。心のうちで祈っています。特に、祈りの形を取らないとしても祈っているのです。その人の思いが神に向かっているとき、そのときその人は祈っているのです。神に問うているときもそうでしょう。「どうして、わたしがこのようなことを引き受けなければならないのですか、神さま」と神に問うている。その心は常に祈っている心なのです。そして、その人のうちで神の言葉が充満している心なのです。

自分の願い、自分の思い、自分の計画などがその人のうちで渦巻いています。その中に、突然、天からの声が響くのです。「そこにあなたの道がある」というような言葉が響くのです。このようなとき、ハッとさせられます。そして、今までの自分の思いが間違っていたことを知らされるのです。そして、方向転換をすることになります。それも自然と方向転換するのです。こうすれば上手く行くというような自分の思いではありません。ただ、そうしようという思いになるだけです。弟子たちに現れたイエスもそのような言葉を語ったのです。そして、弟子たちはイエスを見た。一人ひとりに現れてくださったイエスを見た。彼らは、そこから復活していきます。

「あの方はここにはおられない」という天使の言葉は、女性たちに語られた言葉でした。それは彼女たちが墓の中にイエスを求めていたからです。「あの方はここにはおられない」という言葉を彼女たちは聞いたのです。そして、恐ろしくなった。何故なら、自分たちの罪が明らかになったからです。そして、誰にも、何も話さなかった。このような体験をした人は、そのときには誰にも話さないものです。しかし、彼女たちは弟子たちの体験を知った後で、話したのでしょう。弟子たちも自分たちの体験を振り返った後に、話したことでしょう。だから、このような記述が残されているのです。彼女たちの体験は彼女たちの復活体験です。イエスを墓に求めてはならないということは、彼女たちが歩いて行く人生の中にイエスが語り掛ける言葉として現れてくださるということです。彼女たちは言葉が生きている世界を開かれたのです。それゆえに、キリスト教会はイエスの言葉を宣べ伝えているのです。神の言葉を宣べ伝えているのです。ご自身の体と血を通して、言葉が生きている世界を開くお方イエスがあなたのうちで働いてくださいます。あなたの復活は今起こるのです。イエスの体と血をいただくあなたは、イエスの言葉に従っていただくからです。あなたは言葉が生きている世界を生きていく。あなたに新しい世界が開かれていく。感謝していただきましょう。

主のご復活おめでとうございます。

祈ります。

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