「開かれるこころ」

2024年4月7日(復活節第2主日)
ヨハネによる福音書20章19節-31節

わたしたち人間には主観があります。わたしという存在を認識しているわたしという主観です。わたしが見ている世界を主観的世界と言います。それで、客観的に見る世界があると仮定されています。しかし、実はわたしたち人間が客観的世界を見ることはできません。わたしが何も考えずに見ている世界などないのです。何も考えずに見ているのは、見えているだけです。見えている世界を改めて自分の中で捉え直すのですが、そのときには客観的な世界ではなく、わたしが捉えて理解した世界になります。

今日の日課で出てくるトマスという人は、「疑いのトマス」と言われますが、不信仰なトマスではありません。トマスは他の弟子たちが見たイエス、彼らが聞いたイエスの言葉を疑っているのでしょうか。いえ、自分の目で見て、手で触りたいと言っているのです。つまり、他の人の主観的報告を聞くのではなく、自分もこの目でこの手でこの耳で、そしてこの心でイエスの復活を確認したいと言っているのです。そのようなトマスの思いに応えて、イエスは翌週も現れてくださったと記されています。どうして、一週間後なのでしょうか。翌日ではないのはどうしてなのでしょうか。トマスに祈る時間を与えるためかも知れません。とにかく、一週間後に再び現れてくださったイエスを見て、トマスはこう言います。「わたしの主、わたしの神よ」と。

「わたしの主、わたしの神よ」という言葉が表しているのは、トマスという一己の人間の「主」であり「神」であるということです。トマスはようやく「わたしの主、わたしの神」を見たのです。トマスのために現れてくださったお方を「わたしのためにあなたは主として、神として生きてくださっている」と告白したのです。再び現れて、トマスにご自身を見せ、ご自身の言葉をトマスに語ったイエスの心は、トマスが「信じる者」であるようにとのイエスの愛の心だと受け止めたのです。その愛の心に触れて、トマスは告白した「わたしの主、わたしの神」と。

イエスはトマスを信仰へ導くために現れてくださった。一週間後に現れてくださった。このトマスは、わたしたちの代表です。最初の復活に出会った人たちに遅れること一週間。この一週間をトマスはどのような思いで過ごしたのでしょうか。「わたしがいないところに現れるなんて、どうしてなのか」と思っていたかも知れません。「神であるならば、わたしがそこにいないことを知っているはずではないか」と思ったかも知れません。イエスに見捨てられたように思いながら過ごしたことでしょう。毎日、そのことが頭から離れなかったことでしょう。そして、トマスも復活の主に出会った。それから、一週間毎に礼拝が守られるようになりました。わたしたちが守っている礼拝がイエスの復活の日である日曜日なのはそのような意味があると言えます。

さて、トマスは自分のために現れてくださったイエスを主として信頼して、イエスに従うことになりましたが、わたしたちはどうでしょうか。イエスを見ているでしょうか。イエスの言葉を聞いているでしょうか。一般の方々にしてみれば、イエスの復活など見ることも聞くこともできないと思うことでしょう。ところが、イエスの言葉は聖書に残され、毎週の礼拝の中で朗読されます。礼拝の中で、わたしたちは毎週イエスの言葉を聞いています。わたしたちは、毎週復活の主に出会っているのです。わたしたちが聞いている聖書の朗読と説教を通して、復活の主の言葉が今を生きるわたしに語り掛けられているのです。そう考えてみると、わたしたちは毎週イエスに出会い、新たに生きる道を開かれて出かけていくのだと言えます。

トマスを新たにするために、イエスは現れてくださった。トマスはイエスによって新たにされた。これが大事なところです。見ないで信じる者ではなく、見て信じる者トマスは、見ないで信じる者の先駆けとも言えます。そのトマスを信じる者にするために、現れてくださったイエスは、トマスの主観を大切にしてくださったとも言えます。トマスの主観は見ることによって守られましたが、わたしたち見ていないのに信じている者の主観にも同じことが言えます。信じるということは主観なのです。ところが、信じるという主観を持つためには、トマスと同じようにイエスが関わってくださることが必要なのです。イエスが語り掛けてくださることが必要なのです。そして、語り掛けるイエスの言葉を聴くこころが開かれることが必要なのです。このこころを開いてくださるのは、やはりイエスご自身なのです。しかし、復活の主をこの目で見てはいないわたしはどのようにしてこころを開いていただけるのでしょうか。

「見ないで信じている者たちは、幸いな者たち」とイエスはおっしゃっています。「見ないで」という新共同訳の訳し方は「見るならば信じる」という考え方に傾いています。原文に従えば「見ていない者たちで、信じている者たちは、幸いな者たち」となっていますので、「見ていない者たち」は弟子たちより後のキリスト者たちのことです。見ていない者たちが信じているということが幸いなことだと言われているのですが、「幸い」という言葉は神の賜物、神からの贈り物、神さまのお働きを表している言葉です。つまり、見ていない者たちで信じている者たちは神さまからのお働きによって信じているのだということです。もちろん、トマスにしても他の弟子たちにしてもイエスが現れてくださるというイエスからのお働きがあって信じる者とされているのですから、同じですね。いつもお話ししていますように、信仰は神が与えてくださるものです。与えてくださる神のお働きを素直に受け取る人は受け取るときに信仰を与えられているのです。信じていない人が受け取ることはないからです。信仰という状態はあくまで神さまが起こしてくださることなのです。

トマスも他の弟子たちもイエスが現れることによって信じる者とされました。現れるという視覚的な出来事が信仰に不可欠だと思われがちですが、現れるというギリシア語は「見られる」という受動態の言葉になっています。イエスが現れるということは、相手に見られるようにご自身を現すということです。見てもらうように自分自身を示すことが、現れるということです。そこでは見るという受け手の状態が問題なのではなくて、与え手が見えるようにしてくださることが大事なことなのです。ただし、与え手が見えるようにしてくれても、受け手が受け入れないならば見えないことになります。それはまた、言葉についても同じなのです。

わたしたちが誰かと話す場合にも、その相手の言葉を受け入れることができないときには、聞いていても聞いていないということが起こります。価値観が違うとか、興味がないという場合にも受け入れないことが起こります。そのような場合には、与え手の意図がいかなるものであろうとも受け手側の価値観で取捨選択しているわけです。すべてのことを素直に受け入れる人はいないということです。信仰の事柄も同じです。自分が取捨選択して受け入れるかどうか、信じるかどうかを決めようとしている場合には信仰は起こされません。与え手である神の働きを素直に受け入れる場合にのみ信仰が起こされるのです。そう考えてみれば、わたしたちの信仰はわたしが信じているものではなくて、信じさせてくださるお方の心に従って信じているものなのです。トマスの場合も、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」とのイエスのお心に触れて、彼は素直に信じる信仰を起こされたのです。イエスの心を受け取ることで信仰が与えられる。信仰が与えられているので、素直に受け取ることができる。これが信仰の有り様です。

あなたが信じる者になるために、日々語り掛けてくださる主がおられます。今日与えられる聖餐においても、イエスの心が与えられます。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」とのイエスのお心を素直に受ける人間として感謝していただきましょう。イエスはあなたのこころを開くために、今日もあなたの前にご自身を現してくださるのです。あなたを愛する主の御心に従って歩いて行きましょう。祈ります。

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