「からだの復活」

2024年4月14日(復活節第3主日)
ルカによる福音書24章36節b-48節

「平和、あなたがたに」とイエスは言います。ご復活して、弟子たちの真ん中に立って、「平和」を彼らに告げます。「平和」という言葉は、ヘブライ語では「シャローム」ですから、挨拶の言葉「こんにちは」とか「やあ」と訳す人もいます。しかし、ここではイエスは弟子たちに平和があるようにと宣言しているのです。何故なら、新約聖書のギリシア語をヘブライ語に訳せば、「シャローム」ではなくて「シャロームハー」となるからです。この最後に付いている「ハー」はあなたがたにという意味です。それで、ギリシア語でも「エイレネー、ヒュミーン」となっています。従って、この言葉は一般的に使われる「シャローム」という挨拶ではないということになるのです。イエスは端的に「平和、あなたがたに」とおっしゃっているわけです。

そうであれば、平和はイエスの宣言によってもたらされるものだということです。わたしたちが平和を作ることはできません。平和が戦争のない状態であるならば、わたしたちの世界は常に戦争状態であり、平和など作り出すことができないのがわたしたち人間だということは明らかです。自分たちの主イエスを十字架で殺されてしまった弟子たちにとっては平和はありませんでした。イエスを十字架に架けた人たちから自分たちも追われるのではないかとの不安を持っていたでしょう。また、その人たちを憎む思いに支配されてもいたでしょう。そのような弟子たちに、イエスは「平和」を宣言します。あなたがたには平和シャロームがあるのだと宣言します。弟子たちの憎しみと不安と恐れの中に、イエスは真ん中に立って言うのです、「平和、あなたがたに」と。

このイエスの宣言の言葉を聞いて、弟子たちは自分たちが抱いていた敵への憎しみを思い起こしたことでしょう。敵を殺害したい思い、逃げ出したい思い、不安で仕方がない思いを抱いて、彼らは「平和」などないと思っていたのに、イエスは「平和、あなたがたに」と言うのです。そのような状況がなくなるのであれば良いでしょうが、なくなりません。それでもイエスは「平和」を宣言しておられる。彼らが作り出したい平和は、おそらく敵がいなくなること、敵を追い払うことでしょう。しかし、それでは「平和」はないのです。どこまでも、追いかけてくる敵がいるかも知れません。逃げても、追い払っても、こころに平和はありません。そのような彼らが平和を生きることができるとすれば、イエスが失われていないことを受け入れることしかないのです。そのために、イエスは彼らに現れてくださった。

憎しみや苦しみは、逃げても追いかけてきます。残っています。解消されることはありません。こころに残っているものは別のものに覆われなければ消えないのです。その別のものがイエスの復活であり、イエスの平和宣言です。しかも、その復活に際して、イエスは霊ではないことを示して、からだをもって復活したことを示しました。わたしたちは礼拝式文において、「からだの復活を信じます」と信仰告白しますが、「からだの復活」というものは霊的な復活を越えて、体そのものが復活することを信じているのです。

「まさしくわたしだ」と訳されている言葉は、「わたしは、わたしそのものとして存在している」という意味です。イエスというお方そのものをあなたがたは見ているのだとイエスはおっしゃっているのです。イエスそのものというのは、イエスというお方であるすべてを指しています。ですから、イエスがからだをもって復活したということなのです。霊や魂だけが目の前に現れたということではないのです。

からだというものはわたしたちが自分自身を綜合しているものです。それは単に肉体ということではなく、自分に起こったさまざまな事柄を自分自身のからだの中に受け入れて、一つにすることです。だから、十字架という出来事を通ったイエスには、十字架の釘の後もあるのです。それらの手と足を見せて、わたしそのものであるとイエスはおっしゃるのです。苦難を経たイエスそのものだとイエスは弟子たちにご自身を現し示したのです。

わたしたちは、一つのからだを持っています。わたしという存在は、肉体と霊と魂からなっていると以前にお話ししましたが、わたしという存在は肉体と霊と魂という総合的な存在なのです。この総合的な存在がわたしなのです。どれを欠いたとしてもわたしではなくなります。一つのからだとしてわたしは生きています。このからだの復活ということがなければ、わたしは失われてしまうのです。イエスがイエスであるのは、からだを持っているからです。そして、肉と骨を持ったイエスとして、弟子たちの前で魚を食べたと記されています。

そのお方が弟子たちに告げるのは、あなたがたはこれらのことの証人となるということでした。これらのこととは、イエスが受難して、死んで、復活したことの結果として罪の赦しへの方向転換が行われることを証言するということでした。それはまた、聖書を理解する理性を開かれることでもあったのです。この世の論理では理解不可能な事柄であるからだの復活が語っている罪の赦しへの方向転換は、この世の理性を超えた事柄を受け入れることによって至るものだということです。

わたしたちの考えは、この世の論理に従っています。わたしの大切なお方イエスを殺害した人たちを赦すことはできないという思いを弟子たちは持っていたでしょう。その弟子たちに、十字架の傷跡を見せながら、「まさしくわたしだ」とイエスは言うのです。十字架を通ったわたしがわたしであると言うのです。十字架がなかったことにはならないということだけではなく、その十字架を通ってこその復活なのだとイエスは言うのです。そして、それが聖書を理解することだというわけです。しかも、罪の赦しへと向かうような方向転換が行われるのだとイエスは言うのです。

わたしたちは、起こったことをなかったことにすることはできません。そして、いつまでも恨みます。憎しみによる攻撃で、相手が打ち負かされると喜びますが、相手も立ち上がって反撃してくることになります。その繰り返しが、わたしたちの世界に戦争が絶えない理由です。わたしたちの世界には赦しがない。赦しがない世界に生きている弟子たちに、方向転換が必要なのだと、イエスは弟子たちを派遣するのです。罪の赦しへの悔い改めを、罪の赦しへの方向転換を証するために、弟子たちを派遣する。それは、弟子たちそのものが方向転換をして、イエスを殺害した人たちを赦していることを証するということです。「あなたがたがわたしを殺害した人たちを憎んでいることは分かっている。しかし、わたしは憎しみを増やすために十字架を引き受けたのではないのだ。わたしを十字架で殺した彼らを憎み苦しんでいるあなたがたが赦しを通して平和を証するために来たのだ」とおっしゃっているようです。

罪の赦しへの悔い改めは、自分自身が罪を赦していないならば証になりません。弟子たちがイエスの殺害者たちを赦していることで、彼らは証する人とされる。それは、彼ら自身が被害者として罪を糾弾するのではなく、自分たちが憎しみを抱いている心にも罪が働いていることを認めることでもあるのです。彼ら自身も罪を内に持っていることを認めて、方向転換する。その経験を通して「平和」が訪れることを証する。それが、彼らが派遣される理由なのです。

わたしたちは、自分が罪を犯されたとき、赦すことができるかどうかと考えます。しかし、誰かを憎んでいるとき、わたしは罪を犯しているのです。誰かを亡き者にしようと考えているとき、罪を犯しているのです。誰かを排除しようとしているとき、罪を犯しているのです。被害者でありながら、加害者でもある自分がいる。弟子たちは、被害者なのでしょうか。イエスを置いて、逃げたのです。しかし、そうなったのは、ユダヤ教指導層たちの責任だと糾弾したくなる。そして、自分たちは被害者だと思い込みたくなる。そのような弟子たちのこころをご存知のイエスが、ご自身のからだを現して、からだの復活を知らせてくださったのは、彼ら弟子たちが罪の赦しへと方向転換した者として派遣されるためでした。

わたしたち人間はすべて罪人です。使徒パウロが言うように、義しい人はいない。一人もいないのです。それでもなお、イエスは罪深い弟子たちを派遣します。罪の赦しへの悔い改めを証しし、宣教するために。イエスご自身が、わたしたち人間の罪を赦してくださっています。罪赦された者として、方向転換して、生きていくわたしたちにイエスは平和があるのだと宣言してくださいます。わたしたちのこころに平和を作ってくださるイエスに従って行く一人ひとりでありますように。このわたしから平和が広がって行きますように。

祈ります。

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