「イエスのものは一つ」

2024年4月21日(復活節第4主日)
ヨハネによる福音書10章11節-18節

わたしたちが誰かを知っているということは片方だけが知っていても知っているとは言いません。お互いが「知っている」と了解しているとき、わたしたちは知っているわけです。イエスを知っているということも同じだと言われています。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」とイエスがおっしゃる通りです。お互いが知っているとき、お互いは一つであるということです。「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と言われている通りです。究極的には、多くの羊ではなく、一つの群となると語られていて、羊飼いと羊たちとが一体となることを意味しています。一人ひとりがイエスと一つになって、その一人ひとりの集まりが一つになるということですね。これが、キリスト教会は一つの教会であるということを意味しているわけです。

わたしたちは、ニケア信条において、こう告白しています、「唯一の、聖なる、公同の、使徒的な教会を 私は信じます。」と。「唯一の」と告白しています。キリストの教会は唯一の教会であるという告白です。各個教会としての建物が建っている場所は分かれているけれども、キリストの教会は一つであるというわけです。わたしたちキリストの教会は多くの教派に分かれているわけですが、この告白にありますように、根源的には一つの教会なのです。多くの教派に分かれるということは、信仰的な強調点が違うから起こることです。しかし、一致点はキリストが一人ひとりを知っているということと、一人ひとりがキリストを知っているということだと述べられているのです。信仰的な強調点の違いによって分かれていても、キリストとの関係においては一つなのです。

しかし、わたしたちはこう思いますよね。「このような考え方は分かるけれども、実際はバラバラではないか」、と。果たして、どうなのでしょうか。

キリストと一つとなった魂が、それぞれのこの世における立場や聖書理解に隔たりがあるということは起こり得ます。それでも、一人ひとりに戻ってみれば、キリストと一つであることに違いはないということです。ですから、この世の教会としてはバラバラであるように見えて、キリストとの関係においては一つの教会なのです。バラバラであるということは、違う人たちに宣教できるということでもあるでしょう。皆が同じ考え方、同じ立場、同じ聖書理解で一致しているということが一致だとわたしたちは考えてしまうものです。しかし、そんなことはあり得ないのです。一人ひとり、キリストとの出会いに違いがあるわけですから、分かれることも必然です。それでも、キリストとわたしとが知り合っているということに違いはない。宣べ伝えるべきはキリストの十字架と復活であり、罪の赦しですから、そこから考えてみると、さまざまな立場の人たちに宣教するために、神は教派を分けられたとも考えることができるでしょう。

ヨハネ福音書を書いたヨハネの教団があったと考えられていますが、彼らは迫害を受けていたようです。迫害していたのは、ユダヤ人たちではないかと考えられています。ユダヤ教とキリスト教とは相容れない立場にありました。同じ神を信じていながら、キリストを信じるか否かによって分かれていたのです。ユダヤ教の立場は、救い主は未だ来ていないという立場ですから、キリストが来られたと宣べ伝えているキリスト教を迫害していたということになります。それでも、ヨハネ教団はキリストを宣べ伝えることを止めなかった。そのために迫害されているとしても、止めなかったのです。そして、福音書を残して、後の世代に伝えました。キリストを宣べ伝えることを止めることは誰にもできなかったのです。もちろん、他の教会もありました。パウロが宣教した教会もありましたね。他の弟子たちが宣教した教会もありました。それらは、今日で言えば教派と言っても良いでしょう。そのようなさまざまな別の群があったのです。それはまた、福音書が複数存在する意味でもあります。

福音書を最初に書いたのはマルコだと言われていますが、その後もマタイ、ルカ、ヨハネだけではなく、福音書形式の文書を書いた人たちが他にもたくさんいました。教会の長い歴史の中で、それらが四つの福音書に絞られていったのです。そして、絞られていったのが一つではなく、四つであることには意味があります。それぞれの福音書の強調点が違うということはとても大事なことだったのです。

福音書が四つあるということによって、どれか一つの視点からではなく、いくつかの視点から見たイエスが四つの福音書に記されているということです。それぞれに少しずつ違うイエスを伝えているようにも思えます。どのイエスが本当なのだろうかと考えた神学者たちがいました。四つを総合して一つのイエス像を作りだそうとした人もいました。また、一つのイエス理解から四つを総合して、自分の福音書としてまとめたマルキオンという人もいました。しかし、キリストの教会は四つの福音書を選んだのです。四つの福音書が同じイエス・キリストの十字架と復活を宣教しているのです。四つの視点から見えるイエスが伝えられることによって何が見えてくるのでしょうか。平面的なイエスではなく立体的なイエスが見えてくるのです。そのように考えてみれば、教派が分かれていることも、福音書が複数あることも、宣教にとって必要なことだったと言えます。

「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。」とイエスはおっしゃっています。この囲いとは、おそらくヨハネ教団のことでしょうね。しかし、他の羊たちもいるのです。その羊たちも、イエスの羊だということを弟子たちに教えている。それは、ヨハネ教団の信徒たちに教えている言葉でもあると言えます。わたしたちが同じ聖書理解、同じイエス理解に至るかどうかではなく、キリストがその一人ひとりを知っておられて、彼らもキリストを知っているということが大事なことなのだとイエスはおっしゃっているのです。キリストは、その羊たちのためにも命を捨てるとおっしゃるのです。しかも、「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。」とおっしゃっています。捨てるのは再び受けるためであると。この言葉は、十字架と復活を意味しているわけですから、復活は再び命を受けたイエスご自身だということです。だから「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。」のだともおっしゃるのです。

そうです。誰もイエスから命を奪い取ることはできなかった。これが重要なところです。いのちは神が与え、神が取るものであって、人間には与えることも取ることもできないのです。たとえ、身体的な命を奪うことができたとしても、神がご自分のうちに保持しておられるその人のいのちは奪えないのです。そのいのちは一つのいのちであって、神のいのちなのです。イエスという存在をイエスとしているいのちは失われないのです。神のうちにあるいのちとして失われることはないのです。何故なら、イエスと神とは一つだからです。また、そのイエスと一つである羊たちが存在するならば、イエスのいのちは失われてはいないのです。羊たちのうちに生きて働いているのです。イエスの羊が存在するところには、イエスのいのちが満ち溢れているということです。

わたしたちは、自分のうちにイエスが生きて働いておられるとは思っていません。イエスはわたしを助けてくださるお方で、祈る対象だと思っていますので、イエスを外に求めることになります。また、何か困ったことが起こったときに、助けを祈るお方で、天におられると思っています。ところが、あなたのうちにイエスが生きて働いておられると今日の聖書は語っているのです。イエスの羊であるあなたのために、イエスは命を捨てるとおっしゃっているからです。

命を捨てるという言葉は、魂を置くという言葉です。魂を置く。それは、あなたのために置かれるイエスの魂です。イエスの魂は、あなたを救いたいという愛で満ち溢れている魂です。あなたを知っているイエス。そのイエスを知っているあなたが、知っているイエスによって救われるあなたです。あなたとイエスとは一つの生ける魂となっているのです。イエスの言葉を聞くあなたのうちにイエスの言葉が入ってくることで、あなたの魂はイエスの言葉と一つになるのです。だから、あなたのうちに生きているイエスのいのちが失われることはないのです。イエスがうちに生きているあなたも失われることはないのです。それが、あなたのためにイエスがいのちを置いた目的なのです。

イエスが置いたいのちがあなたのうちに生きて働いているのですから、何も心配する必要はありません。あなたはイエスの羊。イエスと一つになって生きる魂。あなたのいのちはイエスのいのち。この神秘に与る聖餐を共にいただくわたしたちは一つの群れに属する羊たちなのです。一人の羊飼いに信頼して歩み続けましょう。祈ります。

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