「あることと留まること」

2024年4月28日(復活節第5主日)
ヨハネによる福音書15章1節-8節

そこにあるということと、そこに留まるということは違いますね。自分が誰かによってそこに置かれているのに自分でそこに「ある」と思っている人と、置かれていることを受け入れて「留まる」人とでは、存在の仕方が違います。わたしたち人間が存在しているということの本質は、神さまがお造りになったことを受け入れて、造られ置かれたように留まることだと言えます。

わたしたちは置かれたとは思わないままにいつも生きています。生きていることが当たり前だと思っているのが人間です。そのような人間が、神さまに造られた自分であることを受け入れて、神さまが置かれたように生きようとするときには、神さまがお造りになったご意志に従うということが生じます。そのとき、わたしたちは真実に生きていると言えます。反対に、生きていることが当たり前であって、自分でここに生きていると思っている人は、自分の好きなように生きて良いのだと思っています。また、自分が自分を作るのだと考えているということもあります。そのようなときには、人間は神のものとして生きてはいません。自分は自分のものと思って生きています。そのような生き方は、この世にあっては自分の価値を自分で決めるということになります。自分が良い地位に就いて、たくさんの財産を持つことができるようになると、自分を評価できるわけです。反対に、地位がなく、財産もないならば、自分を評価することができず、どうして自分は生まれてきたのだろうかと思うことにもなります。そのようなとき、わたしたちは自分の価値を自分で決めているのです。

神さまが造ってくださったわたしであることを受け入れている人は、自分で自分の価値を決めることはありません。むしろ、どのような境遇にあろうとも、神さまがそこに置かれたのだと信じています。ですから、神さまのご意志をそのままに受け入れて、境遇を受け入れて生きていこうとします。そのときには、自分で決める自分の価値など関係ありません。神さまが、その場に置いたのだと信じていますから、その場、その状況、自分自身の生きるべき方向を自分にとって良い方向にしようとはしないのです。自分にとって悪いと思える方向であろうとも、引き受けて生きていくのです。これが、十字架を引き受けられたイエスの生き方でありました。

このイエスの生き方はぶどうの幹と枝の関係と同じです。幹は植えられる土地を選ぶことができません。枝は、幹と同じように置かれたことを受け入れて生きていくものです。ぶどうの枝は、他の木の幹に置かれれば良かったのにと思っても、他の木の幹に移ることはできません。今置かれているブドウの幹がその枝が留まるべきところなのです。こんな幹に留まりたくないと思っても、神さまがそこに置かれたのですから、他の幹がその枝の幹とはなり得ないのです。これを受け入れることによって、イエスの語られた言葉が、わたしたちのうちに留まると、イエスはおっしゃるのです。

このイエスのたとえに従えば、イエスの言葉は、ブドウの幹から枝に注ぎ込まれる栄養だと言えます。その栄養を注ぎ込まれるままに受け入れることによって、イエスというブドウの幹の枝として生きることができるのです。つまり、イエスの言葉は、わたしたちがイエスの枝として成長するための栄養の言葉だと言えるのです。わたしに注ぎ込まれるイエスの言葉を素直に受け入れる人は、イエスに受け入れられていることを生きているのです。それは、イエスと一体になっているわたしなのです。

さて、イエスはご自身のことを「真実のぶどうの木」とおっしゃっています。「真実の」という形容詞は、「まことの」と訳されていますように、「本当の」という意味です。「本当のぶどうの木」と言うからには、「偽のぶどうの木」があるということですね。「偽のぶどうの木」とはどのような木なのでしょうか。「真実の」という言葉が「真理」と同じ言葉であることから考えてみると、イエスは「隠れなくあるぶどうの木」だと言えます。隠れなくあるということは、何かで良く見せようとはしていないということですね。本当の自分を隠して、偽の自分で良く見せようとするならば、「真実の」その人ではありません。どんなに格好悪くても、見栄えが良くなくても、神さまに造られたままに生きている人は「美しい」ものです。その美しさは「真実の」美しさです。隠れていない美しさです。造ったお方の心に従っているという調和を生きている美しさです。

イエスというお方は、この世の価値から見れば、十字架に架けられて殺されたのですから、悪人だと見られます。イエスには隠すべきものは何もなかったのですが、十字架の姿は罪人の姿ですから、美しくないとこの世の価値は考えるのです。このようなこの世の価値に従って生きている人は、イエスの十字架を受け入れることはありません。まして、十字架で殺されるような悲惨な人間が良い人間であるはずはないと考えてしまいます。見えるところ、人間の判決の結果に従ってしか見ることができないのがわたしたちの価値観です。この価値観を越えることができずに、イエスを見捨てるのがわたしたち罪人なのです。

このような罪人によって、裁かれた結果、イエスは負わされた十字架を引き受けたのです。それが、神のご意志であると受け入れたのです。この世の価値ではなく、神の価値の中で生きたのがイエス・キリストというお方です。このお方が「真実のぶどうの木」であると信じる人は、このお方の幹に留まります。イエスという幹に留まる人は、イエスと同じ生き方をすることになります。幹が罪人と言われるならば、枝も罪人です。罪人である枝、罪人としてこの世では捨てられる枝は、イエスと同じく「真実の枝」と言えるでしょう。イエスは、ご自身に留まる人たちを真実の枝へとはぐくむ真実のぶどうの木なのです。たとえ、この世の価値の中で捨てられる枝であったとしても、真実の枝なのですから神の御前に残り続ける枝なのです。それゆえに、「多くの実をもたらす」と言われているのです。

多くの実をもたらす枝は、イエスと同じ罪人として断罪される枝です。その枝がもたらす実を真実の実だとは誰も思わないかも知れません。ところが、イエスが真実であるならば、もたらされる実も真実の実です。真実の実は、幹が真実であることを証ししています。その証は、この世から見捨てられるということを通して、真実を証しするのです。それゆえに、弟子たちもまた、イエスと同じように殺害されたのです。殉教者は、真実の枝として生き、真実の実をもたらしたのです。

わたしたちは、この世における価値を生きるために召されたのではありません。むしろ、この世の価値から離れて生きるように召されているのです。この世の価値を否定するように召されているのです。天の価値、神の価値、永遠のご意志を生きるようにと召されているのです。そこに生きるために、イエスはおっしゃるのです。「わたしのうちに留まりなさい」と。

わたしたちは、自分の力で天の価値に生きることはできません。自分の判断で神の価値を生きることはできません。自分の意志で永遠の意志を生きることはできません。わたしたちの意志は、幼いときから悪なのです。自分の意志を否定してこそ、わたしたちは神の永遠のご意志に従うことができるのです。このように生きるためには、あくまでイエスというブドウの幹に留まることが必要なのだとイエスはおっしゃるのです。そうです。わたしの力ではなく、わたしのうちに注ぎ込まれるイエスの意志、神の意志、永遠の意志によって、生きることを求めるようにと、イエスは教えてくださるのです。

十字架に架けられたイエスから注ぎ込まれる神の意志が、わたしのうちに満ち溢れるまで留まるならば、満ち溢れるものが実として実っていきます。満ち溢れないうちに「分かった、分かった。」と言っているような人は、実をもたらすことができないのです。わたしが分かって、行うことではないからです。イエスのご意志、神のご意志が満ち溢れて、ご自身の意志を実現なさるのです。そうであれば、わたしたち枝は、神のご意志を通す枝です。「わたし」という枝を神が用いて、神が実をもたらすのです。わたしがもたらす実ではないのですから、こんなに素晴らしい実がなったぞと誇ることもできません。いえ、真実のぶどうの枝は決して誇ることはないのです。ただ、神のお働きのために、イエスという幹に留まり続けるだけなのです。そのように生きる一人ひとりでありますように、イエスのご意志があなたのうちに生きて働きますように。

祈ります。

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