「イエスの愛のうちで」

2024年5月5日(復活節第6主日)
ヨハネによる福音書15章9節-17節

「わたしの愛にとどまりなさい。」とイエスはおっしゃっています。「わたしの愛のうちに、留まりなさい」ということですが、イエスの愛のうちに留まるというのはどういうことでしょうか。

わたしたちは「互いに愛し合いなさい」という言葉を聞くと、わたしが愛さなければならないと考えてしまいます。確かに、イエスがおっしゃったのは「掟」ということでしたから、「愛さなければならない」という掟とわたしたちは受け止めます。しかし、掟という言葉は「定め」ということであって、守るようになっているということです。その掟を守ったからと言って、何か報いがあるというわけではありません。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」というイエスの愛は父の愛に基づいています。それゆえに、イエスは「わたしの愛のうちに、留まりなさい」とおっしゃるのです。イエスと同じように、愛されていることを受け取り、生きるときに、「互いを愛する」ことが生じるということです。その根源は父なる神の愛であるとイエスはおっしゃっています。

イエスの愛に留まるということが、イエスに愛されてきたことを受け取ることだとしても、受け取るということはどういうことでしょうか。受け取った人が必然的に掟を守ることになるのであれば、受け取るだけで良いのですが、わたしたちは受け取ることで互いを愛することになっているでしょうか。もし、そうなっていなければ、受け取ってはいないということになります。では、どうすれば、わたしは互いを愛するようになるまで、受け取ることができるのでしょうか。

わたしたちが、愛さなければならないと考えるとき、愛を受け取っているから、そう思うのでしょうか。そうではありません。むしろ、愛さなければ、イエスに愛されていないと思い込むのです。そして、愛さないわたしがイエスに愛されるために愛そうとする。そうなると、わたしの愛はイエスの愛を受け取るための行為になってしまいます。これを功績、報いとわたしたちは思ってしまうのです。これでは、逆転してしまいます。イエスの愛を受け取ることで愛する者とされていくのではなく、イエスの愛を受け取るために、愛する者となろうとする。この逆転が生じて、わたしたちはイエスの掟を罰のように思い込むのです。

イエスは罰を与えるために、わたしたちを愛したわけではありません。わたしたちが報いを求めずに、愛する者とされるために、わたしたちを愛したのです。十字架を負ってくださったイエスは、弟子たちを愛し、弟子たちと後のわたしたちのために愛を全うしてくださったのです。十字架の上でイエスがおっしゃった「成し遂げられた」、「完成されてしまっている」という言葉が表している通りです。イエスが成し遂げ、完成してくださった愛を十分に受け取るならば、わたしたちは愛する者とされるのです。しかし、わたしたちはイエスの愛を十分に受け取ることをしないで、自分で分かった気になって、愛することを始めてしまうのです。愛することは分かって行うことではないはずなのに、分かって行うことと思ってしまいます。心から、自然に愛することが現れるはずなのに、しなければならない決まりだと思い込んでしまうのです。そのとき、わたしたちはイエスのことを命令を発する支配者のように思ってしまいます。しかし、イエスは「あなたがたはわたしの友である」とおっしゃっています。

ぶどうの枝が実をもたらすのは、実をもたらすほどに栄養を注ぎ込まれたときです。自分が生きるため以上の栄養を受け取ると、栄養は溢れて、実としてもたらされるのです。同じように、イエスはご自身の愛という栄養を受け取りなさいとおっしゃっているのです。あなたがたから溢れ出るに至るまで受け取りなさいとおっしゃっているのです。そうすれば、イエスの愛は必然的に実をもたらすのです、この罪人のわたしから。そのとき、わたしは罪人であるにも関わらず、ただイエスの愛を受け入れるだけの存在となっています。わたしには何も誇るものがないほどに、無になっているのです。そのとき、わたしたちはイエスの愛の中に留まる存在として、溢れ出る実を結ぶことができる。そうであれば、わたしたちは焦って行う必要はないのです。

焦るということは、イエスの愛の力に信頼していないということです。そして、わたしたちは罰を恐れるのです。このような状態になったとき、わたしたちはイエスに愛されるために生きることになります。そして、イエスから離れてしまう。神からも離れてしまう。そして、何もない者となってしまうのです。自分が何者かになろうとして、わたしたちは何者でもない者となってしまうのです。これがイエスを悲しませることになるとは思わず、イエスが喜んでくださると思うのです。それではまったく逆転した考え方になってしまいます。

イエスはこうおっしゃっています。「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」と。イエスの喜びとは、わたしたち一人ひとりにイエスの魂、イエスのいのちを与えることなのです。イエスは喜んで、わたしたちのためにいのちを捨てる。喜んで、わたしに愛を注ぎ込んでくださる。イエスの喜びは与える喜びなのです。その喜びがわたしのうちにあるならば、わたしもまた喜んで与えるようにされるのです。わたしはイエスに喜ばれる存在になろうとしなくて良いのです。イエスは、この罪深い、神を信頼しない人間を愛して、ご自身のいのちを与えることを喜んでくださっている。わたしのうちで喜ぶイエスの喜びは、わたしが愛する者になるという実をもたらすでしょう。イエスの喜びをただ受け入れるわたしが愛する者とされるのです。実をもたらす力はイエスの愛、イエスの喜びなのです。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」とイエスはおっしゃっています。イエスが言う友は、弟子たちであり後のわたしたちです。弟子たちを友と呼び、彼らのために命を捨てるとまでおっしゃる。イエスが言う友とは、イエスの命と同じだけの価値がある存在だということです。そのような友には、誰でもなれるというわけではありません。イエスが「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とおっしゃるから、弟子たちはイエスの友なのです。弟子たちがイエスの友になるほどに価値がある者になったから「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とおっしゃっているわけではありません。彼らは、これからイエスを捨てて逃げ去るような存在なのです。それを知っていながら、イエスは言うのです、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と。そこにはイエスが選ぶに足る価値を弟子たちが持っていたというような基準があるわけではないのです。では、どうして弟子たちは友と呼ばれるのでしょうか。父なる神が彼らをイエスの許に引き寄せたからです。これを選びと言うのです。だから、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」ともおっしゃっています。

「選び」ということも、弟子たちに何か価値があったから選ばれたのであろうと、わたしたちは考えるものですが、「友」と呼ばれることと同じで、選ぶお方、友と呼ぶお方の呼ぶ声に素直に従うとき、わたしたちは選ばれ、友とされているのです。そこに基準があるとすれば、ただ素直に聴き従うということだけです。ぶどうの枝と幹との関係と同じように、置かれたように生きるというだけなのです。枝が他の幹を選ぶとすれば、枝が幹から離れることになって、枝は枯れるのです。同じように、選びも友も神がそのように置かれたことを受け入れるだけなのです。そのとき、わたしたちは置いたお方の「愛のうちで」生きることになるのです。イエスも父なる神の愛の中で、わたしたちを受け入れ、十分な栄養を注ぎ込んでくださる。父なる神の愛とイエスの愛とが満ち溢れて、弟子たちやわたしたちが実としてもたらされているのです。

わたしたちキリスト者は、神に選ばれ、イエスに友と呼ばれている存在です。十分に栄養をいただき、育んでいただくようにと神によって召されている存在です。神のはぐくみが、イエスの十字架の愛の中で行われます。イエスの愛は、ご自身の体と血として、わたしたちの目に見える形で、わたしたちが自分のうちに受け入れる形で与えられます。この愛を受け入れる人は、ご自身の愛から語られるイエスの言葉を素直に受け入れている人です。あなたのうちに満ち溢れるまで愛を注ぎ込みたいと与えてくださるイエスの体と血を受け取るあなたのうちにイエスが生きて働いてくださいます。あなたを愛するお方のお働きに与りましょう。

祈ります。

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