「キリストの発見」

2016年12月24日(降誕祭前夜)

ルカによる福音書2章1節~20節

 

「これが、あなたがたに、しるし。あなたがたは見つけるであろう、嬰児を、産着にくるまれ、飼い葉桶の中に横たわっている嬰児を。」と天使は羊飼いたちに語る。「しるし」とは、本体を指し示すもの。羊飼いたちが嬰児を発見するということが「しるし」だと言われている。嬰児の発見が「しるし」である。この「しるし」は「大いなる喜びに包まれる」しるしである。羊飼いたちにとって「大いなる喜び」とはいったい何か。それは彼ら自身が救いに入れられているという喜びである。

彼らが、誰からも知られず働いていたところに天使が現れたのだ。羊飼いたちは、人知れず働く人。誰からも省みられることのない存在。あって当たり前の存在。感謝されることもなく、ただ与えられた働きをしている存在。当たり前というのは、それを作りだしている存在を忘れさせる。羊飼いたちがいてくれて、飼い主たちは夜眠ることができる。それなのに、彼らがしていることは飼い主も省みない。お金を払っているのだから、当たり前に働けと言うだけ。このような存在は、使い捨てのような存在。使い捨てられていることを悲しく思いながらも、自分たちの境遇は誰の所為でもないと分かっている。自分たちがこのような境遇に生まれたがゆえに、こうなっていると思っている。誰も省みないのも当たり前であると思っている。まして、自分たちに喜びなど関係ないとも思っている。そのような存在が「大いなる喜びに包まれる」と呼びかけられた。

これはどうしたことだ。どうして、俺たちなのだ。俺たちは誰にも知られず、誰からも感謝されることなく、ただ家族が食っていくために働いているに過ぎない。働き甲斐があるなどいう職業ではない。誰でもできると思われている職業。誰も代わりたいとは思わない職業。誰も進んでなろうとはしない職業。こんな境遇だから仕方なくやっているに過ぎない。それなのに、俺たちに「大いなる喜びを福音化する」と天使は言う。何を言っているのか分からない。

誰にも知られず、誰からも感謝されず、ただその境遇に置かれたのだから、仕方ないと続けている働き。ところが、それを見ていたお方がいる。だからこそ、わざわざ彼らに天使を遣わした。そう、天の父なる神が羊飼いたちに天使を遣わした。天使は、神の意志を伝える。天使が、羊飼いたちに現れたということは、神が彼らを見ている、知っているということ。彼らの思いも神はご存知である。誰からも省みられないということもご存知である。そのような彼らに、父なる神ご自身が目を注いでいる。それゆえに、天使が派遣された。どうしてなのか。彼らに発見して欲しいからである。大いなる喜びを発見して欲しいからである。

彼らが見出す大いなる喜びは、彼ら自身が、神の眼差しの中に入れられているという喜びである。彼らが自らの喜びを発見したとき、彼らに見出された嬰児は、彼らの発見を導いた救い主となる。羊飼いたちが発見する救い主キリストは、彼らに見つけられるために生まれる。彼らに発見されるために生まれる。彼らに発見され、彼らも神に発見されるため。

彼らが、天使の言葉を聞いても、その言葉を確かめようと出かけなければ、彼らの発見は起こらない。彼ら自身の大いなる喜びも見出されない。彼らが出かけていくことにおいて、彼らは神の言葉を発見する。神の省みを発見する。神の救いを発見する。出かけていくことは、誰でもするものではない。むしろ、どうして俺たちが行かなければならないのだと思うものである。向こうから来てくれれば良いのにと思うものである。向こうから来ているのだ、飼い葉桶の中に。しかし、こちらも出かけていかなければ、発見できない。それは来ているお方を受け取ることである。

我々も、自分の境遇にあきらめを感じ、自分などどうせいなくても良いのだと思うことがある。しかし、いなくて良い存在などない。それは、役割があるから生きていて良いということではない。いつもの仕事を繰り返すに過ぎない存在であろうとも、世界のために働いているのだから生きていて良いのだということでもない。むしろ、誰にも省みられなくとも、その働きを継続していくこと、そこに存在することに意味がある。その意味は、神がその人を造り、その人の命を省み、その人が生きていることを喜ぶということである。

我々人間を造り給うたお方は、我々が役に立つから造ったのではない。我々に能力があるから造ったのではない。我々が大きな仕事をするから造ったのでもない。ただ、このわたしを造りたいと願って造ったのだ。わたしは、このようなわたしとして神に造られるために生まれたのだ。そこにこそ、神の意志があり、神の願いがあり、神の喜びがある。あなたが生きているということこそが、神の喜びである。あなたが、与えられた境遇を喜んで生きていることこそ、神の喜びである。あなたが大きなことをするから神が喜ぶのではない。あなたがあなた自身を喜び生きることを喜ぶため、神はあなたを造り給うた。

飼い葉桶に横たわっている嬰児も、何の力もない。それでも、神はその嬰児を生まれさせようと飼い葉桶に置かれた。飼い葉桶の嬰児は何の役にも立たない。しかし、その嬰児が飼い葉桶の中で生きることを神は喜び給う。造られた存在が、造られたままに、置かれたままに、喜び生きることが神の喜び。神の喜びを受け取ることで、我々は如何なる境遇にあろうとも、大いなる喜びに満たされる。羊飼いたちも、嬰児を発見して、金持ちになるわけではない。もっと良い仕事にありつけるわけでもない。人から尊敬される人間になるわけでもない。キリストを発見しても、羊飼いは羊飼い。発見する前と後で、何も変わりなく羊飼い。それでも、彼らは大いなる喜びをいただいて帰って行った。神を讃美しながら帰って行った。これはどうしたことであろうか。

羊飼いたちは、嬰児を発見したことで、何を喜んでいるのか。どうして神に栄光を帰し、神を褒め称えるのか。彼らは、キリストを発見したのだ。彼らの救いを発見したのだ。彼らが神によって知られていることを発見したのだ。彼らは羊飼いとして、帰って行った。彼らは羊飼いを生きるために帰って行った。飼い葉桶に横たわっている嬰児が、彼らに力を与えた。彼らの救いとなった。彼らが神の顧みを受けていることを知らしめた。

人間は、自分が役に立つことで認められると思い込む。その思考は、役に立たない人間は必要ないという思考に至る。人から認められる人間なら、生きていて良いという思考に陥る。人間とは、そのように自分の価値を求めてしまう。その価値は、人間同士の中で認められる価値。人間に認められることで価値があると思える価値。人から求められること。人から必要とされること。人の役に立つこと。それこそが価値あることだと思っている。しかし、嬰児は違う。そこに横たわって、何もしていない。だた、母の乳を求めるだけ。それだけなのに、価値があると思える。嬰児は、未だ可能性があるからだと誰もが思う。そして、羊飼いたちのようになってしまったら、絶望しかないと思うのだ。羊飼いたちが地位を与えられれば、生きる価値があるとしたら、地位のない人間は生きる価値がないことになる。しかし、神の眼差しは違う。たとえ、人から顧みられず、気付かれず、虚しさだけを感じているとしても、神はその人を喜んでいる。その人を造ったことを喜んでいる。あなたを造ったことを神は喜んでいる。あなたがあなたとして生きてくれることを喜んでいる。

クリスマスに生まれ給う嬰児は、あなたの造り主を指し示すしるし。キリストはこの飼い葉桶から十字架に至るまでキリスト。飼い葉桶で居場所のない生を与えられ、十字架の死に至るまで神の愛する子として生きたキリスト。このお方を発見するとき、あなたはあなたを喜び生きるであろう。このお方があなたのうちに生まれ給うとき、あなたは神を愛し、自分を愛し、他者を愛する者として生きる。そのために、キリストは生まれたのだから。

今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。

おめでとう、恵まれた人。おめでとう、救われた人。おめでとう、喜ぶ人。あなたのためのクリスマス、おめでとう。

Comments are closed.