「すべての日々を共に」

2017年6月11日(三位一体主日)

マタイによる福音書28章16節~20節

 

「わたしがあなたがたと共に生きる、すべての日々を、世の共なる完成まで」とイエスは弟子たちに言う。すべての日々とは、「世の共なる完成まで」の日々のことである。「世の共なる完成」とは、すべてのことが共に完了するということである。どれか一つが完了して、まだ他が残っているということではない。すべてのことが共に完了するのである。それは、すべてが過ぎゆくべき時を過ぎ、終極に達するということであり、すべての完成なのである。そのときまで、イエスはすべての日々を共に生きるとおっしゃってくださった。従って、我々が生きるすべての日々にイエスが共にいてくださるのだ。これが今日の日課が語っていることである。

しかし、すべての日々ということは、良い日もあれば、悪い日もある。我々にとって、今日は良い日だったと思える日もある。そのときは、神が共にいてくださったと思えるであろう。ところが、悪い日に神が共にいてくださったと誰が思えるであろうか。誰も思えない。わたしにとって、悪いことが起こった日は、神が見放していた日だと思えてしまう。それでも、その日にも、イエスは共に生きているのだと言う。そうである。イエスも苦難を負った。苦しみを負った。十字架を負った。イエスの苦難の中に、神が共におられなかったということはない。神が共におられたがゆえに、イエスは十字架を忍ばれた。そのイエスがおっしゃるのだ。「すべての日々を共に生きる」のだと。それゆえに、我々にとって悪い日だと思える日にも、イエスは共に生きてくださっている。我々が十字架に架けられたように思える日にも、イエスは十字架の上にあって共に生きてくださる。苦難を引き受けられたイエスが、我々の苦難の中で共に忍んでくださっているのだ。このイエスの言を聞かされているということは、弟子たちには励ましであった。彼らがこれから負うであろう苦難の中に、十字架のイエスが共に生きてくださるという約束なのだから。

イエスは、弟子たちの苦難の中に生きてくださっている。我々の苦難の中にも共に生きてくださっている。それが神の神であることなのである。神が神であるということは、我々小さな人間と共に生きてくださるということである。小さな存在のことなど考えないのが、この世の支配者の在り方である。しかし、この世の真の支配者である神は、そしてキリストは、小さな存在のために生きてくださる。彼らの苦難をご自身の苦難として引き受けてくださる。小さな存在と共に苦難を忍んでくださる。彼らを励ましてくださる。これが神であり、キリストなのである。

このキリストが指定した山に使徒たちがやってきたとき、キリストが彼らの前に現れ、キリストを見たとき、弟子たちはひれ伏した。「しかし、彼らはためらった」と記されている。「疑う者もいた」と訳されている言葉は、中には疑う者もいたのだと解釈して訳されているが、原文をそのまま読めば、「しかし、彼らはためらった」とする方が良い。「疑う」と訳される言葉は「ためらう」という意味でもある。疑うがゆえにためらうのではあるが、ためらいは完全に信頼しきれない状態を表している。イエスを見ただけでは「ためらい」が生じるのである。しかし、イエスの言を聞く中で、イエスに信頼する心が起こされるのだ。礼拝に集う者たちは、皆ためらいつつ集うものである。一週間を過ごす中で、神は本当に共にいたのだろうかと思い、神が共にいてくださったのであれば、あのようなことは起こらなかったのではないかと思う。そのような疑いとためらいの中で、我々は礼拝に集うのである。ところが、礼拝において聞くイエスの言葉によって、我々はそのためらいから解き放たれる。我々の心配も、ためらいも、不安も、その中にイエスが共に生きていてくださるという言葉を聞くからである。

イエスは、我々よりも先に、苦難を経験された。我々が経験する苦難は、キリストの十字架に比べれば小さな苦難である。その小さな苦難の中にも、十字架のイエスが共に生きてくださるのだ。いや、小さな苦難とか、大きな苦難というものはない。ただ苦難があるだけである。それが小さかろうと、大きかろうと、苦難は苦難である。苦難は、向こうからやってきて、わたしを巻き込み、混乱に陥れる。どうして良いのか分からなくなる。ところが、その苦難はイエスが十字架において耐えてくださった苦難である。それゆえに、十字架を仰ぐとき、我々は自分の苦難の小ささを感じるであろうが、それ以上に我々はイエスが苦しんでくださったことが、わたしの苦難の中にも生きていることを知るのである。イエスは、我々の苦難の中に共に生きてくださると約束してくださったのだから、わたしが苦しんでいるとき、イエスが静観しているわけではない。むしろ、わたしの苦難の苦しみを共に苦しんでくださっているのだ。このキリストの十字架の苦しみを知るとき、我々はためらいから信頼へと導かれるのである。

イエスがすべての日々を共に生きるとおっしゃってくださることで、我々はすべての日々の苦難を引き受けて生きることができる。イエスが共に苦しんでくださっていると信頼することができる。それが、キリスト者の幸いである。この幸いは、イエスが天に昇られて、聖霊が降されることによって与えられた。聖霊降臨の後、我々の上にイエスの十字架の苦難と、父なる神の憐れみと、聖霊の慰め、励ましが与えられるのである。三位一体主日の今日、我々は父、御子、御霊なる神の支配の中で生かされていることを知るのである。

三位一体とは、父、御子、御霊なる神がすべての日々に共に生きてくださるということである。三位一体なる神は、父として憐れみ、御子として苦難を共にし、聖霊として魂を励ます神である。憐れみ、寄り添い、励ます神が、三位一体の神である。この神は、すべての日々に共に生きるとおっしゃる神である。世の共なる完成まで共に生きるとおっしゃる神である。従って、我々は世の共なる完成の日まで共に生きようと勧めてくださる神に従う中で、終末に至るのである。終末は、突然やって来る。しかし、すべての日々を共に生きるとおっしゃる言葉を聞いた者には、突然ではない。必ずやってくる終末の日に向かうすべての日々が、三位一体の神が共に生きてくださる日々である。従って、突然終末がやって来ることはない。すべての日々を神が共に生きてくださっていることを知るキリスト者にとっては、終末はすべての日々の共なる完了の日なのだから、突然ではないのだ。日毎の生において、共なる神と共に生きているならば、終末が突然来たとしても、うろたえることはない。ためらうこともない。素直に従って行くであろう。

我々キリスト者にとって、すべての日々は、共なる完成に向かう日々である。完成に向かって、神と共に歩む日々である。苦難が襲ってきても、神が共に苦しんでくださる日々である。悪しきことが起こっても、神のご支配の中でのこと。恐れることはない。神が支配しておられるこの世は、共に完成に向かっているのだから、恐れるものは何もない。ただ、我々と共に生きてくださるキリストと父と聖霊がおられる日々なのだから。如何に苦しいことがあろうとも、キリストは共に生きてくださる。我々の苦しみを共に負ってくださり、終末に向かって歩ませてくださる。イエスが言うように、如何なる日も神共にある日。イエス共にある日。聖霊と共に歩む日。共なる完成の日に向かって歩む我らは、何も恐れる必要はない。神がすべてを支配し、すべての日々を導いてくださる。神の国に向かって導いてくださる。

あなたが苦しみに倒れても、キリストは立ち上がらせてくださる。あなたが悲しみに沈んでも、聖霊は励ましてくださる。あなたが絶望に陥っても、父は憐れんでくださる。だから、あなたは見捨てられることはない。見捨てられたかに思えても、その見捨てられたところに、見捨てられたキリストが生きておられる。我々は、神の前から隠れることができない。それゆえに、我々は見捨てられることはないのだ。すべての日々を共に生きてくださるキリストがあなたのために生きてくださるのだから。

祈ります。

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