「弟子たちの未来」

2018年2月25日(四旬節第2主日)

マルコによる福音書10章32節~45節

 

「なぜなら、人の子は来たのではないから、給仕されるために、むしろ給仕するため、そして彼の魂を多くの人たちの贖い金として与えるために」とイエスは最後に語っている。これは、理由である。何の理由なのか。「あなたがたのうちで、大いなる者となることを意志する者は、あなたがたの給仕係であるだろう。あなたがたのうちで、一番であることを意志する者は、すべての者たちの奴隷であるだろう」ということの理由である。つまり、人の子であるイエスが来られた使命が「給仕する」こと、「魂を与えること」であるがゆえに、弟子たちの将来はイエスの現在に規定されているということである。弟子たちの将来は「給仕係」、「奴隷」としてイエスの現在に規定されているのである。弟子たちの未来は、給仕係、奴隷であるであろう未来であり、イエスに従う者はこの必然を生きるということである。これが今日イエスが弟子たちに語ることである。

イエスに従うということは給仕係としての未来、奴隷としての未来を生きることである。このような未来を自らの意志として生きる者はいない。自然的には、我々人間は、給仕係を雇い、奴隷を従える未来を望んでいる。自らが誰かの給仕係になることなど誰も望まない。奴隷になることはなおさら望まない。それなのに、イエスに従うならば、給仕係、奴隷としての未来を保証されているとイエスは言うのである。そんな保証は要らない。むしろ、反対の保証を求めて、イエスに従ってきたはずなのだ。弟子たちは、自分たちの未来が自らが望まない未来であることを告げられている。ここまでついてきたのは、今まで以上に良いことが起こるためではないか。今まで以上に良い地位に就くためではないか。今まで以上に力を与えられるためではないか。それなのに、力を与えられたとしても自分のために使うことができない職業、境遇に置かれるとイエスは言うのである。そんな未来ならいらないと誰もが思う。それがイエスが弟子たちに約束する未来である。

イエスに従うということは、イエスご自身の在り方に規定されることである。それゆえに、イエスが如何なる在り方で生きておられるかを知っているはずの弟子たちの未来は分かっているはずである。しかし、我々人間は、他者から給仕されても、給仕する者になろうとは思わない。奴隷が仕えてくれても、自分も奴隷になろうとは思わない。むしろ、給仕係を使う者になりたいと思い、奴隷を使う者になりたいと思う。ところが、イエスは使う者ではなく、使われる者でもなく、自らを使う者である。イエスは神の意志に従って自らを使う者である。神のために自らを使うことを喜ぶ者である。それゆえに、多くの人々のために、贖い金として自らの魂を与えることを喜ぶのである。この喜びに与る者は誰であろうか。それをイエスは弟子たちの未来として語っておられる。「給仕係であるだろう」、「奴隷であるだろう」と。弟子たちの思いとは全く反対のことをイエスは語る。これはどうしたことであろうか。神に使われることを喜ぶ者であるだろうとイエスは言うのだ。神があなたをあなたがたの中の給仕係、あなたがたの中の奴隷として使い給うのだとイエスは言うのだ。それがあなたがたの未来であり、それがあなたがたの喜びになるのだと、イエスは語るのだ。このような事柄は、我々人間の思いからは決して出てこない。我々人間の論理の果てには位置づけられない。我々人間の願いではない。神の願い、神の意志、神が造り給う世界である。それが神の国。この神の国においては、この世の論理では理解できないことが生じるのである。神の国に生きるであろう弟子たちは、この世の論理では理解不能の未来を保証されている。それゆえに、弟子たち自身からは望まれない未来が弟子たちの未来なのである。そして、我々キリスト者の未来なのである。

あなたの未来は、自分が人にしてもらいたいことをしてもらえる未来ではない。あなたが人にしてもらいたいと思うことを、あなたが人にする未来なのである。その力を与えられ、そうすることを喜ぶような魂とされる未来なのである。このような思い、このような心は、我々人間のうちから出て来るものではない。神が起こしてくださらない限り、我々はそのような思いにはならないであろうし、喜ばないであろう。自分がもらうことばかり、自分が仕えられることばかりを求めているならば、神のものとして生きてはいない。自分のために生きている。自分のものとして生きている。それが自然的人間なのである。このような人間は罪に支配されている。罪から解放された人間は、自分のために生きることはない。神のために生きる。神を喜ばせることを自らの喜びとする。神が自分になしてくださったことを自分もなして喜ぶ。それがキリスト者であるとイエスはおっしゃっているのだ。我々が真実にキリスト者であるということは、未来のことなのである。今現在、我々はキリスト者になりつつあるとしても、完全にキリスト者になってはいない。これを聖化の道として歩むことが我々キリスト者と呼ばれる者の生涯である。それゆえに、ルターが言うように我々キリスト者の生涯は「悔い改め」なのである。

我々は、洗礼を受けて、キリスト者としての道を歩み始めてはいる。しかし、完全にキリスト者にはなっていない。弟子たちの未来と同じく、我々は未来に保証されている給仕係、奴隷の生を目指して歩むのである。その生が喜びであるように求めて歩むのである。救われていると満足するならば、その人はキリスト者ではない。実際、未だキリスト者にはなりきっていないのだから、途中で取り止めた者となる。こうして、キリスト者になり始めた者が途中で投げ出すことが起こる。そのとき、彼らはキリスト者にはなりきれず、神の国に入ることもできないであろう。神の国の生を目指して生きていないからである。

イエスは弟子たちの未来を語った。未来に向かって始められた神の御業を無駄にしないために、イエスは語っておられる。未だ完全にはキリスト者になり得ていない者が目指して歩むべき未来を語っておられる。誰もが望まない未来。誰もが逃げたい未来。誰もが喜べない未来。それがキリスト者の未来である。しかし、キリストがそのようにわたしに関わってくださったと認める者は、キリストのゆえにその未来を生きようとするであろう。今は喜びにまでなり得ていないとしても、未来には喜びになるであろうと信じて歩み続ける。キリストは、ご自身をわたしに与えることを喜びとしてくださったのだから、わたしの未来もそのようであるだろうと歩み続ける。これがキリストの者としての歩み。これがキリストに生きていただく者の未来。これがキリストのように生きるであろう者の今。今を耐えて生きる者には、必ずキリストの喜びが宿る。キリストはあなたに喜び生きて欲しいと、ご自身を献げてくださったのだから。あなたの給仕係として生きてくだっさったのだから。あなたの奴隷として生きてくださったのだから。このキリストをまっすぐに受け入れている者は、必ずキリストの喜びを生きる未来を与えられる。それが今日イエスが保証してくださっている未来なのである。

あなたの未来は、キリストの現在に規定されている未来。キリストが今生きてくださっている。あなたのうちにキリストが生きてくださっている今を、あなたは生きる、あなたの未来において。弟子たちの未来は、キリストの現在において保証されている未来。キリストの現在において見えている未来。キリストの現在においてキリストが生きておられる未来。これが我々キリスト者の未来なのである。

喜び仕える給仕係、喜び支配される奴隷、どちらも神が使い給う者。この未来を生きるために、救われた者は歩み行く。聖化の道を歩み行く。救われたことに満足する者は聖化の道を歩むことなく、義とされて終わる自然的死者と同じである。未来に向かって歩み続けるために、我々はこの四旬節をキリストを見上げながら生きよう。あなたのために、ご自身の魂を与えてくださったキリストに従って歩み続けよう。あなたに神の言を給仕してくださったキリストに従って、隣人に神の言を伝えて行こう。キリストがあなたのうちに生きてくださるように。

祈ります。

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