「共に悲しむ」

2018年7月1日(聖霊降臨後第6主日)

マルコによる福音書3章1節~12節

 

「怒りをもって彼らを凝視して、彼らの心のかたくなさについて共に悲しみ、彼はその人に言う。手を伸ばせ。そして、彼は手を伸ばした。そして、彼の手は元に戻された」と記されている。手の枯れてしまっている人に命じる前に、イエスは怒り、共に悲しんだと記されている。怒りは理解できるとしても、共に悲しむとはどういうことであろうか。イエスが共に悲しむ相手はいったい誰なのか。かたくなな心を持っている人である。かたくなな心を持っている人が悲しんでいなければ、共に悲しむことはない。かたくなな心であれば悲しんでなどいないと思える。ところが、マルコはイエスが共に悲しんだのだと言う。どうしてなのだろうか。

彼らはイエスが言うことを理解していたはずである。「安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、魂を救うことか、殺すことか」とイエスは彼らに問うた。当然「善を行い、魂を救うことが許されていることだ」と答えるはずである。ところが、彼らは問われて、静まった。何も言わなかった。それゆえにイエスは怒った。しかし、共に悲しんだ。この矛盾するイエスの心はどうして起こったのだろうか。

分かりきっていることを素直に答えることができないということは、かたくなな心を持っているということである。彼らにはどちらを選択すべきかは分かりきっているはずだから、二つの心に分裂しているということである。素直に答えたい心と、素直に答えれば安息日に癒やしを行うことを許すことになるからと黙ってしまう心に分裂している。この分裂した心は実は悲しい心である。悲しむ心は素直な心である。悲しむ心を見ないようにして、イエスの癒やしを認めたくない心を優先する人々。その人たち自身のうちで、心は分裂し、悲しんでいる。その悲しい心をイエスはご存知であり、共に悲しんだのだ、素直になれない魂のために。

そこでイエスは手の枯れてしまっている人に言う。「手を伸ばせ」と。そして、彼は伸ばして、彼の手は元に戻った。手の枯れてしまっている人は素直にイエスの言葉に従った。それだけで手は元通りになった。これがイエスがその人のうちに起こし給うた信仰なのである。

では、黙ってしまった人たち、悲しい心を持っている人たちにはイエスの言葉は働かないのだろうか。イエスは彼らにも言ったのだ。彼らの心が分裂しないように、素直に純粋な心に従うようにと、イエスは彼らに言ったのだ。「安息日に許されているのは善か悪か」と。そのとき、許されていることを言葉に出して応えていれば、彼らの心は悲しまずに済んだのだ。答えるべき言葉、素直に言うべき言葉を押さえつけたがゆえに、彼らの心は悲しんでいる。その心の悲しみをイエスは共に悲しんだ。彼らの心のかたくなさを悲しんだ。

彼らも自らの心がかたくなであることを分かっている。かたくなさをどうにもしようがないことも分かっている。それなのに、イエスに依り頼むことはない。かたくなな心が、彼ら自身の純粋な心を枯れさせている。まるで、手の枯れてしまっている人のように、純粋な心は枯れてしまって、生きていない。純粋な心が悲しんでいる。彼ら自身の悲しみは彼らの枯れてしまった純粋な心の悲しみなのである。イエスはその心の悲しみを知っている。憐れんでいる。そして、手の枯れてしまっている人に言う。「手を伸ばせ」と。ただそれだけで、枯れてしまっている手が元に戻った。しかし、それを聞いたかたくなな心の人たちは、イエスを殺害する方法を相談することになった。結局、殺害しか考えないのだ、かたくなな心は。自分たちの押さえ込んでいる純粋な心が回復されるなら、自分たちが教えてきたことの間違いを認めなければならない。行ってきたことも改めなければならない。そうなっては面目がつぶれると、彼らはイエス殺害を考える。これがかたくなな心の悲しみである。

彼らは悲しい心を抱えながら生涯生きて行くのだ。純粋に神の言に従うことなく、イエスを認めることなく、ただ自分たちの面目と地位を守るためにイエスを否定する。善を行うことが正しく、魂を救うことが如何なるときにも正しいと分かっている。にもかかわらず、自分たちのために善を悪に変える。これがかたくなな心の悲しみである。彼らは悲しんでいる自分の魂を知っているにも関わらず、見ないようにしているだけなのだ。終わりのときに、押さえていた悲しみが噴出するであろう、神の裁きの前で。それまでは、彼らは自分をどうにもすることができない。哀れな、悲しい人たちである。

一方、手が枯れてしまっている人は純粋に素直にイエスの言葉に従った。どうしてなのか。イエスの言葉を受け取ることができたのは、彼の力なのか。イエスが受け取らせたのか。受動性というものは受け取るという能動を含んでいる。受動性という能動なのである。イエスの言葉に従うということは、イエスの言葉に促された心がイエスの言葉を受け取ったということである。受け取った心が促されて手を伸ばした。手を伸ばすという行為が生じるために、イエスの言葉の受容があり、受容した言葉がその人の能動を動かしめた。イエスの言葉は手の枯れてしまっている人を動かしたのだが、動かしたのは彼自身である。イエスの言葉と手の枯れてしまっている人は一体となって、手を伸ばした。イエスの言葉が彼を捕らえ、ご自分のものとしてくださった。それゆえに、彼は素直に純粋に手を伸ばすことができた。そして、彼の手は元通りに回復した。回復するということは、純粋になることである。それまで彼の手を枯らしていたものから解放されて純粋になることである。彼は純粋になった。それを行ったのはイエスの言葉であった。

かたくなな心の人は、イエスの言葉を受容できず、不純のままに、矛盾した分裂した心のままに、イエスの殺害を計画することになった。彼らの純粋な心が回復されないままに、不純の悲しみを抱えて、殺害を計画する。他者を殺害する者は不純に蝕まれている。純粋になれないように妨げられている。ファリサイ派やヘロデ派の人たちは悲しみを抱えながら、殺害へと突き動かされていく。イエスの言葉がそうさせてしまう。同じイエスから語られた言葉が別様に作用する。それでも、イエスは悲しみを共にしながら、言うべきことを言い、為すべきことを為す。それだけがイエスの在り方なのだ。

イエスは悲しみを共に悲しみつつ、ご自身の業を行い給う。それがイエスの十字架である。殺害されながらも、殺害する者たちを悲しみ、彼らの悲しみの心を共にしている十字架。このお方の十字架こそ、我々の悲しみを葬ってくださる神の御業。十字架において葬られた自らの悲しみを受け入れた者がキリスト者である。哀れな罪人を赦し給うために、十字架を引き受け給うたキリストは、我々の悲しみを引き受け給うた。我々の動かない心、かたくなな心を引き受け給うた。我々が自らの分裂した心から解放され、純粋に神に従う生を生きるために、我々の罪を引き受け給うた。このお方の十字架が、我々を解放する。手の枯れてしまっている人が癒やされたように、我々を罪から解放し、癒やし給う十字架。キリストはあの十字架の上で、我々のかたくなな心を悲しんでおられる。あなたの心の悲しみを知っておられる。あなたの分裂した心の痛みを知っておられる。このお方の言葉に、十字架の言葉に促されて、動かすのだ、我々の枯れてしまっている心を。伸ばしなさいとおっしゃるキリストの言葉と一つとされて、我々はキリストの命を生きる。その命をキリストはご自身の体と血をもって、我々に与えてくださる。

あなたのうちにキリストの体と血が言葉と共に入り来たりて、あなたをキリストのものとしてくださる。あなたのうちにキリストを形作ってくださる。あなたが純粋に生きるために、キリストはあなたのうちに生きてくださる。今日も与えられるキリストの体と血を受け、キリストの言葉と一つとされよう。あなたに善きことを行い給うキリストを受け入れよう。あなたの魂を救い給うキリストに生きていただこう。キリストはあなたの手を伸ばしてくださる。

祈ります。

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