「キリストの名のゆえに」

2018年9月30日(聖霊降臨後第19主日)

マルコによる福音書9書30節~37節

 

「これらのこどもたちのうちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れている。わたしを受け入れる者は、わたしを受け入れているのではなく、わたしを派遣した方を受け入れている」とイエスは弟子たちに言う。この言葉でイエスが語っているのは、こどもを受け入れる者は神を受け入れているということである。キリストを受け入れているならば、神を受け入れているからである。神とキリストは一つである。従って、こどもたちの一人を受け入れる者とは、受け入れ難い存在を受け入れるのであり、神もキリストも受け入れ難い存在だということである。

神を受け入れることができるならば、こどもたちも受け入れるであろうとイエスはおっしゃっている。こどもたちは人間の大人社会においては見えない存在であり、認められない存在だということであり、神とキリストも同じだということである。確かに、神は誰でも受け入れ、認めるものではない。神は受け入れる者に受け入れられるだけである。認める者に認められるのが神である。こどもたちも同じ次元に生きている存在だとイエスはおっしゃる。ということは、人間の大人社会の外に生きているのがこどもたちであり、こどもたちを排除して大人社会は成り立っているということである。さらに、こどもたちが神やキリストと同じであるならば、こどもたちは神とキリストの世界に近く生きているということである。そのようなこどもたちを我々大人が自分たちの社会に同化させていく。大人になれば、神から離れ、キリストから離れ、人間の大人社会に生きるようになる。人間の支配がすべてであると思って生きるようになる。これが大人になるということである。

イエスがマルコによる福音書10章14節で「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃるのも同じ論理である。こどもたちは神の国に属し、大人は人間社会に属して人間の支配を形作っている。これが、イエスが見ておられる世界である。大人の人間支配においては、見えているのに見ないということが横行する。弟子たちが、イエスの受難予告を聞いて、「語られた言葉を認識しなかった。そして、イエスに尋ねることを恐れた」ということと同じ感覚である。恐れているのだから、その内容を理解しているのだ。しかし、それを確認して、イエスの死を受け入れることができないがゆえに、尋ねることを恐れたということである。認識したことを素直に受け入れることができない。認識していないことにしてしまう。これが大人である。イエスが語った言葉を聞いて、恐ろしい結末が待っていると認識した弟子たちは、それを言葉に出してしまえば確定すると思ったのであろうか。聞かなかったことにすれば、分からないことにすればそれは起こらないとでも思ったのであろうか。自分が分からなければ安心という思考は、頭隠して尻隠さずの思考である。自分が見えていなければ、他者からも見えていないと思うような思考である。これはこどもたちのかくれんぼに多い。ところが、大人は普通に行っている。無意識に、不利益な情報を遮断するのが大人である。意識的に遮断するわけではないが、我々大人は心の奥で「これはまずいことだ」と感じ取って、遮断しているのだ。自分自身が悩むことも苦しむこともないように遮断している。これが大人の無意識の思考である。こどもたちは、これをそのままに受け入れるがゆえに、不安になり、苦しむことも大人よりも早い。大人が、これは困ったことになりそうだと察知するものを何の先入観もなく受け入れてしまうこどもたち。こどもたちはありのままに受け入れてしまう。そして苦しむこともあるであろう。しかし、大人よりも真理の近くに生きている。ありのままに苦しみ、ありのままに喜ぶのはこどもたちである。

弟子たちが受難予告を聞かなかったことにして、「誰がより大きいか」を議論していたのも、大人の思考である。そして、イエスは第一の者とは仕える者であるとの言葉を語っているが、その後こどもを真ん中に呼んで、抱き上げて言うのだ。「これらのこどもたちのうちの一人を受け入れる者は」とこどもたちのありのままの姿を見せて言う。何も聞かなかったことにしようとして、彼らがより大きなものについて議論していた心をイエスはご存知だった。全部ばらしてしまうようなこどもは社会に入れることはできないと考える社会と同じところで、あなたがたは考えているのだと。これらのこどもたちは、全部さらしてしまうことが何故悪いことなのかを理解しない。すべてを明らかにしてしまうと、問題が起こるとも考えることはない。すべてをさらしてしまうことが悪いのか否か。これらを検討して、フィルターにかけるのが大人なのである。これらのこどもたちがすべてを受け入れている姿こそが、彼らが神の国に属しているということなのだとマルコ10章でイエスは宣言するのである。

神の国に属しているということは、ここでも言われているように「わたしの名のゆえに」受け入れるということなのだとイエスはあえて言う。これは、大人社会がこどもを受け入れないという前提を認めている発言である。当然、大人社会はこどもたちを受け入れいないであろうとイエスも認めている。それゆえに、こどもたちを受け入れる者は「わたしの名のゆえに」受け入れるのだと言うのである。

キリストの名のゆえに受け入れるということは、普通には受け入れないものをあえて受け入れるということである。受け入れたくないものをあえて受け入れる。こどもを受け入れるということは受け入れさせる力が必要なことなのだ。それが「キリストの名」なのである。キリストがおっしゃるのだから受け入れようと受け入れることである。キリストの名で呼ばれているわたしなのだから受け入れようとすることである。キリストのものとして生かされているこどもたちなのだから受け入れようということでもある。

しかし、ここで「キリストの名のゆえに」と言われている。「キリストのゆえに」ではなく、そこに「名」が入っているのはどうしてなのか。「名」とはその人そのもの、その人の魂を表すものだからである。こう言い換えても良いだろう。「キリストの魂によって」受け入れると。キリストの魂は神ご自身と同じである。神の意志そのままに生きておられるのがキリストである。キリストの魂に促されて、キリストの魂と一つとされて受け入れること。イエスはそのように弟子たちに語っている。

キリストの魂がわたしたちをありのままに受け入れてくださったように、「キリストの名のゆえに」受け入れ難いものを受け入れる。キリストの言葉もありのままに受け入れる。これがキリストの名をもって呼ばれるキリスト者である。とは言え、キリスト者であろうとも、未だ大人社会の慣習に縛られている罪深い人間である。罪深い人間であることを受け入れて、キリストの名のゆえに、キリストに従って生きて行こうと決断させられた存在である。自分で決断したというよりも、神が予知し、予定した者として召し出してくださったからである。キリスト者は、今まで受け入れなかった神とキリストを受け入れるようにされた存在である。この存在が、再び受け入れない、認めない、聞かない存在となることも起こる。キリスト者として洗礼を受けたとは言え、未だ罪人なのだから、元の木阿弥になることもある。それゆえに、キリストはご自身の体と血を与える聖餐を設定してくださった。我々のうちに、キリストが形作られるようにと設定してくださった。

我々は、自分自身をありのままに神の前に明らかにする罪の告白を主日ごとに行い、キリストの体と血をいただく聖餐に与る。キリストがこのわたしのためにご自身を十字架に引き渡し給うた御心を受け取る聖餐。聖餐を通して、我々は失われそうになる自由を取り戻し、新たに自由を生きる者とされる。キリストはその名に依り頼む者を見捨てることはない。キリストと同じ形になるようにと日々導いてくださる。この日もまた、キリストの魂をいただく聖餐に与り、キリストの名のゆえに生きる道を雄々しく歩んでいこう。あなたはキリストが受け入れてくださった者なのだから。

祈ります。

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