「神の子の自由」

2018年10月28日(宗教改革主日)

ヨハネによる福音書8章31節~36節

 

「奴隷は、家のうちに永遠に留まることはない。息子は永遠に留まる」とイエスは言う。奴隷が家に留まることがないのは、家族ではないからである。奴隷は交換可能な家財でしかない。息子は如何に能力がないとしても息子である。奴隷は家の主人が求める能力がなければ、もっと能力のある奴隷に交換される。奴隷は能力で量られ、息子は能力で量られることはない。存在そのものは能力で量られることはなく、息子であるという存在的事実において、その家のすべてを享受する権利が与えられているからである。奴隷は、交換されないようにと、主人の顔色を伺いながら生きることになり、息子は父の顔色を伺う必要はなく、自由である。息子であるということは獲得する資格ではなく、生得的権利だからである。

当時の奴隷は自由人になることができた。自由人になれば、その家に留まることも自由に決めることができた。あるいは、自分で家を造ることもできた。自由人だから家に留まり、その家の権利を享受することができた。もちろん、息子のように家を継ぐ権利があるわけではないが、その家のうちに生きる権利が与えられたのである。

さらに、息子は奴隷を自由にする力も持っていた。それゆえに、イエスは言う。「もし、息子があなたがたを自由にすれば、本当にあなたがたは自由人として生きる」と。イエスがこう言うことによって、32節で語った言葉が神の息子であるイエスに当てはめられることになる。「あなたがたは真理を認識するであろう。そして、真理はあなたがたを自由にするであろう」と語ったイエスは、神の息子が「真理」であり、自由にする力を持っていると述べたのである。神の子が自由にするならば、自由にされた奴隷は神の子と同じように自由にされる。そして、その家に留まる自由を与えられる。主人の顔色を伺う必要はなく、自由に選択することができる。イエスはその息子であり、真理であるとおっしゃっているのだ。

真理とは神の息子であるイエスそのものだとイエスは言う。これは自分を真理であると言うのだから、証明にはならない。しかし、自分が真理そのものであるとしか言い様がない。事実そうなのだから。それゆえに、証明がないとしても信じることが求められる。信じるということは、証明がないとしても信じることである。いや、証明されて信じるのは信じるとは言わない。確認するというだけである。しかし、信じるという出来事は、そのように語ったイエスの言葉のうちに留まることである。証明がないとしても、イエスが語った言葉を信じて、その言葉が真実であると留まるのである。そのとき、我々は真理そのものの中で生きるのだから、真理を内側から認識する。外側から認識するのは、真実な認識ではない。自らのものとなる認識ではない。なぜなら、客観的な認識は自分のものとはならないからである。主観的な認識、内省的な認識こそがその認識を自らのものとする認識となる。それゆえに、イエスの言葉のうちに留まるということは、イエスの言葉のうちに生きるということである。

イエスの言葉のうちに生きるということは、イエスの言葉に賭けてみるようなものである。イエスがおっしゃるのだから、その言葉に賭けて生きることである。証明がないのだから賭けるしかない。実際にその言葉のとおりに生きてみるしかない。それが信じることなのである。そのように生きてみることによって、我々は真理を認識するとイエスはおっしゃるのだ。真理とは客観的に認識するものではないということである。真理は生きられてこそ真理として働くからである。客観的に知る真理は道具でしかない。道具のように自分が用いるものでしかない。実際に自分自身が生きる真理をイエスは語っておられる。それがイエスの言葉のうちに留まるという言葉が語っていることである。「留まる」と訳されている言葉はメノーというギリシア語で、「滞在する」、「住む」ことを意味する。イエスがおっしゃった言葉に従って住むならば、奴隷であろうともその家に住む者とされるのである。その奴隷は、自分が住むために努力していた獲得する生き方から解放されて、ただイエスの言葉のとおりに居住するだけである。それだけで奴隷は自由人として生きるであろうとイエスはおっしゃるのだ。奴隷の能力の問題ではなく、神の息子の言葉を信じて生きるという問題なのである。神の息子の言葉に力があるということである。マルティン・ルターは、この神の息子の言葉に賭けて生きたのである。

ルターの当時の生き方は、教会の教えを守る生き方であった。神の言葉、神の息子の言葉を信じるのではなく、教会が作り出した教えを守ることによって、神に受け入れられると教えられていた。それはまさに教会の教えに奴隷のように従う生き方であった。ルター自身も、この奴隷のような生き方を自分のものにしようと努力した。しかし、いつまでも平安は得られず、自分が救われていることを知ることもなかった。ルターは平安を自分で獲得しようと努力したが、得られなかった。獲得するのではなく、与えられている事実を受け入れるだけで良かったのに。ルターは、この事実をどこで知ったのか。塔の部屋だと言われている。そこにおいて、ルターは「神の義」について思いを巡らせていた。神が自分に求めている「義」、神が自分を裁く「義」と思っていた「神の義」が自分に与えられる「義」、自分を解放する「義」であるとの認識に至ったとき、彼は自由になった。求められているものに応えなければならないと思っていたときには、神の言葉は苦い言葉であった。しかし、与えられる「義」の中に信頼していれば良いと認識したとき、神の言葉は甘美な言葉になった。ルターは神の言葉が自分を自由にしてくれたと認識した。彼は、神の子の自由を得た。この自由を多くの人たちに伝えたいと願うことで、宗教改革が始まった。宗教改革は神の言葉が起こした出来事。ルターが起こした出来事ではない。ルターはただ神の言葉、イエスの言葉のうちに生きただけである。神の言葉がルターの生き方を変えた。神の言葉に従うだけで、彼は神の子として生きる自由を得た。神の子の自由は、神の子の言葉のうちにある。神の子の言葉が我々を自由にする。神の言葉が我々にいのちを与え、平安を与えてくださる。ルターが見出したというよりも、神の子の言葉がルターに見出させた自由。これが宗教改革の始まりであった。

ルターはルーテル教会を作りたかったのではない。神の子の自由を与える神の子の言葉を生きる存在を作りたかった。一人ひとりが真理の言葉を聞いて、生きる者となって欲しかった。それがルターの願いであった。我々はルーテル教会を宣べ伝えるのではない。神の子の言葉を宣べ伝える。実際に一人ひとりが神の子の言葉を生きて、宣べ伝える。それだけがルターに与えられた信仰に生きることなのである。我々一人ひとりが、神の言葉を聞き、神の言葉を生き、神の言葉を伝える。自分自身のうちに神の言葉が生きて働くのを体験する。それだけが我々がルターの信仰を受け継いでいくことなのである。ルーテル教会がルーテル教会として存続することが重要なのではない。ルターに与えられた信仰を与えられている者として生きることが重要なのである。それが神の子の自由を生きることである。

あなたがたが神の子の自由を得るために、キリストは十字架を負ってくださった。このお方が苦難を越えて、神の子の自由を生きてくださった。このお方が生きてくださった十字架の生を我々も生きる。そのとき、我々は如何なることがあろうとも自由である。如何なる苦難に襲われようとも自由である。我々は自由なる者として生きることができる。真理そのものであるキリストの言葉だけが我々を自由にする。

我々がこの自由に生き続けるために、ご自身の体と血を与えてくださる。キリストが我々のうちに生きてくださるために、ご自身を与え続けてくださる。キリストの体と血に与って、自由であるわたしを生きて行こう。あなたは神の子の自由を与えられている。神の子の自由を生きるようにと願われている。神の子の自由はあなたのものである。

祈ります。

Comments are closed.