「歓待」

2019年9月15日(聖霊降臨後第14主日)
ルカによる福音書15章1節~10節

「この人は、罪人たちを歓待して、彼らと一緒に食べている」とファリサイ派や律法学者たちがつぶやき続けていた。彼らは、イエスが「歓待している」と言っているが、この言葉はプロスデホマイというギリシア語で、プロス「予め」、デホマイ「受け入れる」という言葉からできている。「予め受け入れる」ということは「待つ」ということであり、期待して待ち、受け入れることなので「歓待」という意味になる。イエスは、罪人たちを予め受け入れると決めていたということである。ファリサイ派や律法学者はそう認識した。イエスご自身の生き方から、それは明らかだったとファリサイ派たちは認識したのだ。予め受け入れていたのだから、今に始まったことではないということである。イエスの生き方がそれを示していた。それは誰にでも了解できたことだった。その予めの決定を予定と言う。予定されていたことを、どうして予定したのかと彼らは批判しているのである。それは、神の意志に従わないことではないかと批判している。もちろん、公には言えないので、つぶやき続けていた。
現代では、つぶやきはつぶやきではない。公につぶやく人がたくさんいる。おかしな時代である。それはつぶやきとは言わない。つぶやきは、公に言えないからこそつぶやく。わざと聞こえよがしにつぶやく人もいるであろう。つぶやきとは批判するため、否定するための愚痴である。通常、つぶやきは否定していることがその人に分からないように、陰でつぶやくものである。ファリサイ派はそのようにつぶやいた。しかし、つぶやきに同調する人が多く現れれば、もはやつぶやきではなくなる。主流派になるのである。ファリサイ派や律法学者は、イエスの前ではつぶやいていたが、結局彼らは主流派であり、ユダヤ指導層の主な見解がここで語られている、「イエスは、罪人たちを歓待している」のだと。
この「歓待」が悪いと彼らは批判している。どうしてなのか。歓待している相手が「罪人たち」だからである。罪人たちを歓待するなどということは、義人である人が罪に汚れることになると考えたからである。それゆえに、彼らは罪人たちとは関わりを持たなかった。罪人たちと食卓を共にするなど到底考えられなかった。イエスが通常のユダヤ教の教師であるならば、そのようなことはしないであろうと、彼らは批判しているのである。
ところが、イエスは、神は歓待するお方であると、たとえを語った。一匹の羊を探し回って、「一緒に喜んでください」と言う羊飼い。無くした銀貨を探し回って、見つけたら「一緒に喜んでください」と言う女。これが神であるとイエスはおっしゃっている。神が見失った羊。神が無くした銀貨。それが罪人であるとイエスは言う。銀貨も羊も、最初から羊飼いや女の喜びを宿している。大切な存在として生きていた。それが失われ、見えなくなったとしても、すでにあった喜びは失われない。いや、さらに大きくなるとイエスは言う。罪人は、羊であり銀貨であると言う。これは、神における認識である。
ところが、ファリサイ派や律法学者にとっては、罪人は銀貨ではないし、大切な羊でもない。ファリサイ派たちにとって、彼らは罪人でしかない。最初から罪人である。神にとって、大切な羊や銀貨であろうとも、彼らには罪人でしかない。その認識から抜け出すことができない。最初から罪人である存在は変わり得ないのだから、罪人であり続ける。彼らに触れることで、罪に汚れるのだから、触れないようにと排除する。それが彼らの予めの決定である。神が予め、ご自身の羊、銀貨としておられる存在を、罪人として決定してしまっているのがファリサイ派たちなのである。それは、目の前の現実しか見ることができない愚かな認識である。
神が造られたとき、今罪人と呼ばれている存在は神に愛されて造られた。罪を犯した存在は、見失った羊、無くした銀貨であり、最初から無くしたもの、見失ったものではなかった。これを忘れているのがファリサイ派たちである。イエスは、ご自身の予めの決定である「歓待」を、神の創造の最初にさかのぼって決定している。ファリサイ派たちは、自分たちが罪人と認識した時点のみを絶対化している。この違いが、一緒に喜べないファリサイ派たちの問題である。彼らが、神の創造の初めに立ち返ることができるようにと、イエスはたとえを語り給うた。
「一緒に喜んでください」と言う羊飼いや女は、見失って探す間、見つけて喜ぶことを期待して探していた。彼らも、予め決めていた、喜ぶことを。彼らも歓待していた、見失ったときから。それが、神の在り方であると、イエスは言う。神は、最初から歓待している。見失ったとしても、必ず見つけ出し、一緒に喜んでくださいとおっしゃる。無くしたとしても、懸命に探し出して、一緒に喜びたいと予め決めている。罪人は、神によって予め歓待されている存在なのだと、イエスはおっしゃるのである。その罪人の悔い改めは、探し出す人がいて生じる。罪人が歓待されていることに素直に従ったときに、生じる。罪人から始まる悔い改めではなく、探す人、神の歓待から始まる悔い改めを、イエスは語っておられる。罪人が悔い改めるのを喜ぶ神は、探して、連れ帰る、ご自身が喜ぶために。探して、連れ帰る神の肩に、素直に背負われる者が悔い改める。これが、イエスが語っておられる悔い改めである。
ファリサイ派たちは、自分が悔い改めようとは思っていない。なぜなら、罪を犯していないと思っているから。罪を犯していない。神に背いていない。神に従っていると思っている。そして、神に背いた存在を、罪人として規定し、排除する。排除して、自らは彼らに触れないように生きている。こうして、自分が罪に汚れないように生きることを選択している。それが罪であることを知らない。考えようともしない。
神は、このような罪人も探して、連れ帰るのか。ファリサイ派たちも探されているのか。そうである。彼らは、探して連れ帰ろうとする神を拒否してしまうであろう。それでも、神は彼らを連れ帰ろうと、イエスを遣わした。イエスが罪人たちを歓待する姿を通して、神ご自身の在り方を示してくださった。その姿に、神を認めさえすれば、彼らも連れ帰られるであろう。ところが、そうはならない。連れ帰り給う神を拒否して、イエスを十字架に架けてしまう。素直に、神の肩に担がれることがない。自分の力で、神の許に帰ると考えている。自分たちにはその力があると信じている。力無き罪人に触れていないのだから、力があると信じている。力ある者が悔い改めず、力無き者が悔い改める。これが悔い改めの現実。
「義人は悔い改める必要が無い」と思い込んでいる義人は義人ではない。自らが罪人であると、常に顧み、神に祈っている者が義人である。自らが悔い改めることはできないと知っているのが義人である。神が連れ帰らなければ、帰ることができなかったのだと知っている者が連れ帰られ、悔い改めを生きる。それゆえにこそ、イエスは罪人たちを歓待して、一緒に食べていた。それが神の意志を生きるイエスの在り方であった。
我々は、自ら気づくこともできず、自分の道を歩き続ける。神から離れていることにも気づかず、歩き続ける。その歩みの中で、苦難に襲われ、もだえ苦しむことが起こる。その窮地から救い出してくださるのは神であり、イエスである。我々が抜け出すことができない自分の罪の結果から、連れ帰ってくださるのはイエスである。このお方がいてくださることで、我々はようやく神の力を知ることができる。
我々が気づかない自らの罪を、イエスは知り給う。あなたが失われていると知り給う。あなたが無くなったと知り給う。あなたを探してくださる。我々は気づかなかったが、イエスによって見出された。キリスト者とは、イエスが探し出してくださった御業に素直に従った者。自分では立ち帰ることができなかった者。ただ、イエスに感謝するしかない者。これが我々であり、神の羊、神の銀貨。あなたは、予め受け入れることを神によって決められていた者。この神の予定をただ素直に受け入れた最初の心に立ち帰ろう。神は、最初からあなたを愛しておられたのだ。探しておられたのだ。大切なあなたを。
祈ります。

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