「天の倉から」

2020年2月26日(聖灰水曜日)
マタイによる福音書6章1節~6節、16節~21節

「なぜなら、あなたの宝の倉があるところ、そこにあなたの心もまたあるから」とイエスは言う。新共同訳が訳す「富」という言葉は「宝の倉」という言葉でもある。「宝の倉」には「宝」が入っているので、「宝」とも「富」とも言われるのである。この倉があるところがどこかによって、我々は何をどこに求めるのかが決まるとイエスは言うのである。天の倉には神の善きものが詰まっている。地の倉には人間が良いと考えるものが詰まっている。そして、人間は地の倉を求める。人間の価値を求める。自分の思いを満たそうとするものが地の倉には詰まっているのである。
しかし、天の倉には人間の思いとはかけ離れた富が詰まっているので、人間の思い通りには行かないものばかりが天の倉にある。それこそが我々の富。それこそが我々の宝。そう信じて、地上において生きる者は、地上の事柄に左右されることはない。ただ、天の富は我々の思い通りには行かないということを認識する。そうして、神の意志に従って生きることになる。そのとき、我々は何ものにも揺さぶられることなく生きることが可能となる。これが、今日イエスが我々に与え給う恵みである。
そのためには、我々は塵に過ぎないことを知らなければならない。地の塵から造られたのが我々人間であると聖書は語っている。聖書は人間を造った理由をこう語っている。創世記2章4節から5節にはこう記されている。神が地と天を造られたときには、まだ野の木や野の草は生えていなかった。神が雨を降らせていなかったからである。そして、もう一つ欠けているものがあった。「地を耕す人間がいなかったから」と。神の雨と地を耕す人間が欠けていることで、地上の草木が生えないままであった。そこで、神は地の塵から人間を造り、その鼻にいのちの息を吹き入れた。こうして、人間は地を耕すために造られた。神の似姿として造られたと同時に、地に仕えるために造られた。神の似姿であることは、神との関係を正しく生きることを意味している。神の似姿とは、神のようであるという意味ではなく、神との正しい関係を生きることができるということである。それは、人間として生きること。被造物として生きること。神によって造られたことを生きること。塵から造られたことを生きること。我々が神になることはできないと知って、生きること。それが我々人間が造られた意味である。
我々人間は、そこから抜け出そうと罪を犯してしまった。禁断の木の実を食べてしまった。その姿が示しているように、我々人間は神の支配から抜け出すことを求めるようになった。さらには、我々人間同士の間で争いが絶えないのも、我々が他者に支配されることを嫌うからである。自分だけが正しくあると思っている。自分だけが苦しんでいると思っている。自分だけが損をしていると思っている。それらの自分の思いから離れることができずに、我々は罪を犯してしまったのである。
我々に受け継がれている原罪は、我々を促す。「正しい人間であると示せ」、「自分が良い人間であることを示せ」、「自分が悔い改めていることを示せ」と。「そうすれば、皆がお前を正しい人間だと思うであろう」と。我々は人間にそれを示して、評価されたい。人間に認められて、満足したい。そして、神を捨てる。神に向かっているように見せかけていても、結局自分に向かっている。自分の利益のために働いている。これが我々罪人である。
イエスは、このような偽善を捨てるようにと勧めている。我々は偽善だとは思わず、自分を騙しているとも思わず、地上の富、地上の価値を求めて生きる。他者との比較において、我々は神を仰がず、人と比べて生きる。あの人よりも優れている。この人よりも劣っている。と一喜一憂する。このような人間の歩みはすべてを自分に集める。その人が集めるものは地上の富。だから、時間と共に朽ち果て、忘れられていく。再び、新しい価値を求めて生きる。このような果てしない貪欲のゆえに、我々は他者との争いを繰り返していくのである。
このようなところから、我々が解放されるにはどうしたら良いのか。地上の富に目を奪われることなく、天上の富を仰いで生きることである。地上の富は地上の倉に収めることができるが、天上の富は地上の倉に収めることはできない。ただ、供給されるだけである。ただ、受けるだけである。獲得することはできない。蓄えることもできない。そのとき、そのときに与えられるものを受け取る。神は必要な時に必要なものを常に与えてくださっている。これは信じることであって、確認することのできないもの。だからこそ、信仰がなければこのような生き方はできないのである。
地上の富は信仰がなくとも獲得することができる。争いの果てに、獲得することができる。しかし、天上の富は他者との争いとは関わりなく、ただ天の神が我々に与え給うものである。これは獲得できない。ただ、神が与え給う贈り物、恵み。それゆえに、天の倉に収められている神の善きものが我々には常に与えられると信じるしかないものなのである。この信仰を与えるために、イエス・キリストは十字架を負ってくださった。我々が、地上において価値あるものと認めることができないような姿で、神の意志に信頼し続けてくださった。キリストの十字架は、我々に天上の富を指し示す。天にこそ真実の富があると語る。キリストは十字架の上で、天の父なる神を仰いでおられる。天の倉から与えられる真実のいのちを仰いでおられる。このお方の十字架を仰ぐ者がキリスト者である。
キリスト者はキリストが仰ぎ給うた天の父を仰ぎ、天の父に信頼する。天の倉にある神の善きものを信頼する。天の父は、我々に相応しいものを常に供給してくださると信じる。キリスト者はキリストの獲得してくださった富。天の功績に与っている。この富を、この功績を誰も獲得できなかった。キリストだけが獲得することができる富であった。なぜなら、キリストは地上の富を求める者たちから排斥され、十字架に架けられたからである。このようにして、天の富に至るとは誰も考えなかったからである。地上的には敗北であり、滅びである十字架が、天上的には勝利であり、永遠の命である。地上の価値とはかけ離れた富は、天上にしかない。我々の手の届かないところにしかない。こうして、我々はキリストによって、天上の富をいただきつつ、天を目指して歩み続ける、神の意志に従って。
今日、我々は聖なる灰の式に与り、塵に過ぎないことを覚えよう。塵に過ぎない存在を生かしてくださる天上の富を持っておられる父に祈ろう。神の前にひれ伏し、神の憐れみに身を委ねよう。あなたは塵に過ぎないが、神がいのちの息を吹き込んでくださった存在なのだ。塵に過ぎないが、神の息が与えられている存在なのだ。塵に過ぎないが、神の愛に満たされている存在なのだ。罪深くとも、神はあなたがただ受け取るならば、天の倉から善きものをあなたの手に与えてくださる。
四旬節が始まる。キリストの御受難の痛みを感じながら歩んで行こう。キリストの苦しみ、キリストの苦き血の値が、我々のために献げられたことを覚えて、歩いて行こう。悔い改めに相応しい実は、ただ自らを省み、罪を悔い改めて生きるとき、必然的に生じる。それゆえに、暗い顔をする必要はない。あなたの真実な心を神は見ておられる。だから、人間に見せる必要はない。神にのみ、顔を向けて歩み続けよう。神はあなたを喜んで迎え入れてくださる。
キリストが天の倉から与えてくださる富をただいただく者として生きて行こう。あなたは塵から造られたのに、豊かな富を天に持っているのだ。感謝して、四旬節を共に歩んでいこう。
祈ります。

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