「ノリ・メ・タンゲレ」

2020年4月12日(復活祭礼拝)
ヨハネによる福音書20章1節~18節

「ノリ・メ・タンゲレ」とイエスは言う。ラテン語で「わたしに触れるな」という意味である。ギリシア語では「メー・ムー・ハプトゥー」、「自分自身をわたしにくっつけるな」、「わたしにすがるな」である。何故、イエスはマグダラのマリアにこう言ったのか。マリアに、自らを現しておきながら、触れるであろうこと、くっつくであろうことを予見できなかったのか。予見できなかったわけではない。泣いているマリアを哀れに思い、イエスは「何故、泣いているのか」と語りかけたのだ。園丁だと思っていたマリアは、イエスの憐れみの語りかけを聞いて、「わたしの先生」と言った。ラブーニというヘブライ語は、ラビに一人称語尾が付いた言葉である。「わたしの先生」とマリアは喜んだ。「わたしの先生の体を、誰かがどこかに運んでしまった」と思い、悲しみに沈んでいたマリア。イエスの「マリア」という呼び声を聞いて、イエスだとの認識が開かれた。そして、イエスにすがりついたのであろう。だから、イエスは「メー・ムー・ハプトゥー」、「ノリ・メ・タンゲレ」と言った。
「ノリ・メ・タンゲレ」、わたしに触れるな、との言葉が示しているのは、イエスはすがりつくべき存在ではないということである。「すがりつく」、「くっつく」という行為は、物理的存在に対しての行為である。それはまた、自分だけのものにしようとの思いが込められた行為である。マリアは、誰かに取り去られたと思ったイエスが目の前に立っておられたがゆえに、もう離さないという思いで、すがりついたのであろう。それは、マリアがイエスを自分だけのものにしようとした思いでもある。誰にも渡さないとの思いでもある。この思いをイエスは戒めた。「ノリ・メ・タンゲレ」と。
我々は、物理的に人に近づくことがその人との距離を縮めることだと思っている。最も親しい人とはまさに「くっつく」のである。これが我々人間の親しみの表現であるとしても、自己専有化の思いが満ちている。この自己専有化をイエスは戒めた。何故か。その理由をイエスはこうおっしゃっている。「まだ、わたしは昇っていないから、父の許に」と。「父の許」とは天のことであろうか。父なる神の許に昇ると言われているのだから、上の方にある天である。父の許に昇ることで何が起こるのか。聖霊降臨である。それは、弟子たち一人ひとりに聖霊が降り、イエスの十字架の福音を宣べ伝えるようにされる出来事である。そのために、イエスは父の許に昇る。そのイエスをマリアが自己専有化して、地上に留めてはならないと、イエスは戒めたのである。つまり、イエスを信じる者たちが聖霊の力に満たされることへ向けて、あなたはわたしを手放せとマリアに言ったわけである。イエスは、マリアの思いを受け止めつつも、ご自分の使命が貫徹されるために、「わたしに触れるな」とおっしゃったのだ。それはまた、マリアをご自分から解放することでもあった。
我々は、慣れ親しんだ環境、人間関係に縛られている。自分では縛られているとは思っていないであろうが、手放すことができない。変えることができない。これまで通りでなければ落ち着かない。変化を求められている現在、我々は不安の中にいる。今までとは違う世界が広がっていく中で、どこに身を置けば良いのかと思ってしまう。おそらく、マリアもそう感じていたであろう。そこに、イエスが現れ、「マリア」、といつもの声が聞こえてきた。彼女がイエスにすがりつくのは当然である。そのマリアを受け入れつつも、イエスはマリアに新しい世界を示す。イエスが天の父の許へ昇る世界。物理的にすがりつく世界ではなく、信仰的に結ばれる世界。自己専有化ではなく、すべての人と共に主を仰ぐ世界。互いに縛り合う世界ではなく、互いを手放す世界。すなわち赦しの世界である。
すがりつき、縛り合う世界は、お互いがお互いを握りしめている。抜け駆けされないように握っている。しかし、後れを取らないように、先を争うために、足を引っ張る。誰かを縛り付けておいて、自分だけは先に行こうとする。これが罪の世界である。赦しの世界は、先に行くよりも後になる者を作る。仕える者を作る。他者の主体を認め、受け入れる者を作る。ギリシア語では「赦す」という言葉は、手放すという意味である。しっかり握りしめて、自分も他者も身動きできないようにすることが赦さない生である。反対に、赦す者は、他者の在り方を受け入れ、その生き方を認める。それぞれに違うことを受け入れる。同じようにしなければならないということは何もない。それぞれに与えられた人生を生きるべきである。もちろん、他者を傷つけてはならない。他者を排除してもならない。イエスが他の福音書でおっしゃるように「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛する」ということがその生き方の基本となる。
このような世界を開くために、イエスは父なる神の許に昇る。それゆえに、地上に留めてはならない。すがりついてはならない。「わたしに触れるな」とイエスはおっしゃった。「ノリ・メ・タンゲレ」、すがりつくな。自分だけのものとするな。すべての人に開かれる世界を閉じてはならない。イエスは、こうマリアに言ったのだ。それゆえに、弟子たちに告げる使命をイエスはマリアに与えた。「わたしは昇っていく、わたしの父であり、あなたがたの父の許へ、わたしの神であり、あなたがたの神の許へ」。こう伝えるようにとマリアを派遣した。
イエスの父が、弟子たちの父だとイエスは言う。イエスの神が、弟子たちの神だとも言う。イエスさえも、父であり神であるお方を専有しないとおっしゃっている。同じように、イエスご自身も誰にも専有化されることはない。すべての人にご自身を開いておられる。この世界を開くために、イエスは天の父の許へ昇る。これがマリアに告げられた言葉の意味である。
「ノリ・メ・タンゲレ」。我々はこのイエスの言葉によって、解放されている。十字架に縛られたイエスが、神によって解放され、復活させられたように、マリアを解放し、復活させる。復活とは、新しい立脚点に立たされること。今までの在り方を捨てて、新しく立たされるところ。そこに、神の国は開かれている。永遠の命が与えられる。復活、アナスタシス、新しい立脚点に立たされたイエスが、すべての人にその世界を開示する。十字架のイエスが完了した神の計画。それがイエスの復活によって、すべての人に開かれる。自由なる世界。解放された世界。今までの在り方を捨てる世界。この世界に入れられた者たちをキリスト者と呼ぶのである。
今日、洗礼を受ける落合正夫も、この世界に入れられる。神の世界の住人として生きる。神の守りの中で生きる。イエスの父なる神が、彼の父なる神である。これから生きて行く世界は、これまで生きてきた世界、積み上げてきた世界を捨てて入って行く世界。神のこどもとして生きて行く世界。娘とも兄弟姉妹となる。この世界が、今日、彼に開かれる。マリアが使命を受けて、弟子たちの許へ遣わされたように、落合正夫も遣わされる。この世に遣わされる。彼が置かれた場所で、主の復活の世界を証しし、主の復活の証人として生きるために。この世界に、一人でも多くの人が加えられますように。
自己専有化してしまう罪の世界から解放された者として、我々はイエスの世界を広げ、父なる神の許へ来たるすべての人を受け入れる。復活の力がこの世界を包み、すべての魂が救われますように。死を越えて生きる永遠の命を持つことができますように。そのために、主は今日我々にご自身の体と血を与えてくださる。あの十字架に架かり、死に給うたお方、あなたの主イエス・キリストの体と血は、あなたのうちに新しいいのちを創造してくださる。縛り合うことなく、赦し合う世界へと導いてくださる。感謝して、聖餐に与ろう。
「ノリ・メ・タンゲレ」とマリアに言い給うた主の言葉に従い、我々も出掛けていこう。「わたしは主を見ました」と宣べ伝えていこう。あなたの主イエス・キリストの恵みが、あなたの上に日々与えられ、自由を生きる力が備えられますように。
主のご復活、おめでとうございます。
祈ります。

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